2011年11月20日日曜日

アメリカTVドラマの新潮流

私のまわりには、アメリカのテレビドラマが大好きという日本在住のお友達がけっこういる。
シットコムもドラマも大好き!という人たちである。
私は、実はアメリカにきたばかりの頃から、「Friends」や「Seinfeld」をみて、なんてバカバカしいんだろうとずっと思ってきた。
笑いのツボは国境を超えないのだ、と。
が、例外的によく観たのが、有料チャンネルHBOのドラマである。
卒業してNYにきたばかりの頃、HBOのドラマ「Oz」をみて、こんなクオリティの高い番組をテレビで作れるのかとびっくりした。
「The Sopranos」も観たし、いわずと知れた「Sex and the City」も観た。
(HBOでみたのはドラマだけじゃなくて、ドキュメンタリーもずいぶん観た。ジョン・アルパート氏の作品もいろいろ観たし、West Memphis Threeについて教えてくれたのもHBOだった。ジョージ・カーリンやクリス・ロックのコメディについてもHBOで知った)。

そんなわけで、この間、HBOの新作「ボードウォーク・エンパイア」のクリエーターであるテリー・ウィンタース、出演者のスティーブ・ブシェミやマイケル・ウィリアムズに、HBOについて話を聞くことができたときは、ちょいと感慨深かった。
(そのストーリーの一部がGQのウェブで公開されてます)

出演者や関係者10人あまりに短時間ながら話を聞くことができたのだが、マイケル・K・ウィリアムズの「ネットワークが動物園だったら、HBOはジャングル」という言葉がとても印象に残っている。
(ちなみに、マイケル・K・ウィリアムズは、「ブロードウォーク・エンパイア」で、黒人が通ってきた辛い歴史をテレビで表現することをどう思うか、との質問に、「表現しないことのほうがよっぽど恐ろしいと思う」と答えていた)
テリー・ウィンターズも、HBOでの作品を「1シーズン12時間のシネマを作る気持ちで作っている」と言っていた。
そして、「OZ」「ザ・ソプラノズ」の影響で、テレビでできることの幅がぐっと広がった、と関係者たちが口をそろえていうのです。
有料チャンネルでも、そうでなくても。

その例として、かならず話題にのぼるのが「Mad Men」そして「Breaking Bad」である。
「Mad Men」は日本でもお馴染みなのは知っていたが、「Breaking Bad」は、高校で化学を教える冴えない中年男性が、ガンになったことをきっかけにクリスタル・メスを作るようになり、どんどん悪くなっていく、という話である。
めちゃくちゃおもしろいし、ストーリーテリングのクオリティも優れているのだが、筋書きが筋書きなだけに、日本で放映できないだろうと思っていたら、去年DVDも販売されているし、ちょうどこの23日から放映されるというではないですか。
捨てたもんじゃないね。
トレーラーはこちら
めっちゃおすすめ。
こういった作品が、テレビのクリエイティビティをこれからも広げていくと思うと、なんだかわくわくします。

2011年11月16日水曜日

「読む」が変わる:Don't let them tell you we don't read



サンフランシスコに行ったのは9月の終わりだったか。
Wired編集部の若林恵さんと。
電子書籍の世界で今何が起きているかを取材するために。
「『読む』が変わる」というタイトルの記事を若林さんが書き、私はwiredの創立者ケビン・ケリーと現編集長のクリス・アンダーソンにインタビューした。

電子書籍というと、どうしても紙の本に対立的な存在と考えがちだが、今回は、雑誌の記事と書籍の間に存在するような、「ショート」「ミディアム」のフォーマットの読み物を刊行しているパブリッシャーに取材した。
どこも、書き手が始めたパブリッシャーばかりである。

若林さんが書いた記事はとてもおもしろいので、あとは買って読んでください。
480円という安すぎる価格がついています。


私にとってのハイライトはケビン・ケリー氏を自宅に訪ねたことだった。
なんてったって、Whole Earth Catalog作った人である。
ちぐはぐの靴下を履いていて、カエルの骨だかなんだかをブリーチする実験とかしていて、お土産に庭で作ったズッキーニをくれた。
「読む」という行為が変わりつつある、という話題のときに、
でもこれは歴史上初めてのことではなくて、「読める」ことが一部の人だけが持つ特殊能力だった時代には、誰かが代表してみんなに読んであげるソーシャルな行為だったわけで、「読む」という言葉が意味するものが変わるのは当然の流れだよ、という話になった。
彼は、ツイッターやフェイスブックだってじゅうぶん「読む」行為だし、人類はかつてよりもより多く「読む」という行為をやっているという考え方だ。
これは「読む」ということに限らず、すべてにおいて、人類は毎日少しずつ前に進んでいる、Tomorrow is always better than today
という考え方なのだ。
デジタルの時代がきて、映画、音楽、出版、どこの世界でもいろんなことが変わりつつあって、「以前のようにはいかないんだよ」という大人がたくさんいる。
「最近の若い人は音楽なんか聞かないんだ」という言葉もよく聞く(後半はバリエーションあり)。
「変わる」ことを悪いことだと思っている人も多い。
私は「昔は良かった論」を聞くとムッとしてしまう性質なので、ケビン・ケリー氏の持論を聞いて勇気を得た気持ちになった。

ちなみに、このおもしろかったケビン・ケリーとのインタビューも、雑誌の誌面だとかなり凝縮することになってしまう。
でもウェブだったらもうちょっと長くてもオッケーだし、さらに取材とかを加えれば、ミディアム・フォーマットになるかもしれない。そして、それぞれきっとオーディエンスは違うのだろうと思う。
というようなことを考え、体感した旅だった。

告白すると、新しい電子書籍のプロジェクトに携わり、デジタルの話をしながら、これまで個人的にはほとんどの本を紙で買っていた。
が、この旅をきっかけにこれも変わった。
単に、取材の一環でサンフランシスコに多数存在するインディ系の素敵な本屋をたずねるうちに、読みたい本とたくさん出会ってしまい、でもスーツケースに入り切らないという物理的な理由で、装丁に魅力のない本をiBookで買うようになった。
それをきっかけに、かなりの本を電子書籍で読むようになった。
あまり深く考えないで買うので、もうすでに毎月アマゾンで使っていたお金を超えるような勢いである。
でも本屋に行く行為はやめないと思う。
本屋での本との出会いは一味ちがうし、物理的の場所としての本屋で過ごす時間は好きだから。

2011年10月22日土曜日

ワンガリ・マータイさんの訃報を聞いて

もう1ヶ月近く経ってしまったけれど、9月にサンフランシスコを旅しているときに、ワンガリ・マータイさんの訃報を聞いた。

マータイさんのことは、2006年にインタビューさせてもらったことがある。
記憶もちょっとあいまいなのだが、「へこたれない」のブックツアーをやっていたマータイさんを、ワシントンでつかまえたような記憶がある。



「もったいない」というフレーズが好きな環境運動家、というイメージで親しんでいる人が多いと思うけれど、この本を読むと、壮絶な戦いを生きてきた人なのだということが良くわかる(ご本人はおおらかで優しい人だったけど)。

というわけで、訃報をきっかけに、2006年のインタビューの原稿を引っ張り出してみた。
マリー・クレール日本版2007年1月号に掲載されたインタビューなのですが、エディターさんから許可をいただいたので、タンブラーのほうに全文ポストしました。
(マータイさんの活動については、充実したまとめを発見しました)

そのとき、環境に対する取り組みは進歩しているのでしょうか?
という質問を投げた。
それに対しては、Yes ともNoとも受け取れそうな長い答えが返ってきた。

そのあと、もっと直接的に
Are you hopeful?
と聞いたら、力強い
Yes!
が返ってきた。
私たちは、前進できているのだろうか?

2011年10月20日木曜日

ルーシー・ウォーカーさんの「津波そして桜」

先日、時計のブランドのシャリオールのクリエイティブ・ディレクターであるコラリー・シャリオールさんからメールがきた。
彼女は、ご主人のデニスさんと、社会的なテーマを取り上げるドキュメンタリーを上映して、そこからチャリティ活動につなげるというReact To Film(サイトもあるのだが、フェイスブックページのほうがよく更新されているようです)という非営利団体を主催している。
今回は、ルーシー・ウォーカーさんが撮った"The Tsunami and the Cherry Blossom" という作品のご案内がきた。

正直、ご案内を受け取ったときは、タイトルとフライヤーを見たときは不安になった。
チージーなものも、泣かせるものも苦手だからだ。
でも、ルーシー・ウォーカーさんといえば、Countdown to zeroとかWaste Landのように社会派作品が多いので、どんな作品になっているのか出かけてみた。

実際、作品は、被災地の人たちの姿を、日本人にとって桜がどういう存在か、というサブテーマを重ねつつ描いたものだった。
放射能の話も、東電の話もちらりと出てくるけれど、主役は人だった。
やっぱり泣いてしまったけれど、私は出かけてよかったと心から思った。

聞いたら、ウォーカーさんはもともと桜が大好きで、桜をテーマにした短編を撮ろうと思っていたという。
ところが震災が起きた。
それで一度は諦めかけたものの、やっぱり震災と桜を絡めた作品にしようと思ったのだという。

今、アカデミー賞のショートリストまで残っている(ノミネーションの一歩手前)という作品の上映会、私が出かけた会は、お客さんのほとんどが非日本人だった。
みんな津波のシーンに息をのんだり、避難所の人々の映像に涙を流したりしている。

5月にチャリティのフリマをやってから、これからどうやって何をすればいいかということを悩みながら、非営利団体申請の手続きにえらく時間がかかってしまっていることなどもあり、あまり具体的に行動を起こせずにきた。
日本についてのカバレッジが減った今、そして、ほかにも援助が必要な国がやまほどあるなか、日本を助けてくださいとお願いし続けるべきなのか、どうお願いするべきなのか、ということについて考えてきた。
そんなときに見たこの作品である。
日本人が言いあぐねていることを、かわりに言ってもらったような気持ちになった。

React to Film のお二人は、College Action Network
というネットワークを使って、これからこの作品を全米の大学で上映しようとしている。
「具体的にお金を集めることもそうだけど、まだ日本が大変なんだということを伝える努力をしていく」と、主催者のデニス・ポールさんが言っていた。

2011年10月2日日曜日

トロイ・デイビスともう一人の死刑囚

9月21日に、ジョージア州でトロイ・デイビスの死刑が執行された。
ヨーロッパ各国やローマ法王、カーター大統領やアムネスティ・インターナショナルや多くのセレブなど、いろんな方面から反対の声があがっていたこともあって、かなり注目度は高かったので、ご存知の人も多いと思う。
いろんなメディアがいろんな記事を書いていたけれど、バニティ・フェアが掲載していたトロイ・デイビスの写真には本当に涙がでた。

一応、知らない人のために書いておくと、トロイ・デイビスというのは、1989年にジョージア州のサバナという街で白人の男性警官を射殺した疑いで逮捕され、無実を訴え続けた黒人の男性である。
そもそもデイビスが犯人だということを裏付ける物証がないうえに、デイビスが有罪判決を受けた裁判で証言した目撃者の9人のうち7人が、証言の内容を撤回したり、変えたりしているうえ、かなり高い確立で真犯人だと思われる人物がいたりして、有罪判決の正当性自体を疑問視する声も多かった。
死刑はこれまで何度も延期されてきたし、再審を請求したり、減刑を嘆願するなどして、死刑を行わせない道を探ったみたいだけれど、結局デイビスは死刑にされてしまったわけです。

実は、デイビスの死刑が執行された同じ日に、テキサス州で別の死刑囚が執行されていた。
死刑になったのはローレンス・ラッセル・ブルーワー。
1998年に黒人の男性に、仲間の男性二人とともにリンチを加えて殺害した罪で死刑判決を受けた白人至上主義者である。
被害者の名前はジェームス・バードさん。
家まで送ってあげるふりをしてバードさんを車に乗せ誘拐し、殴る蹴るの暴行を加え、小便をひっかけたりやりたい放題やった挙句、バードさんの足首を車の後部にくくりつけ、3マイルも走ったうえに、ひきずられる間にあちこちにぶつかって体の部位が切断されたバードさんの遺体を捨てた、という事件である。
このあまりに凄惨な事件は当時大騒ぎになり、マシュー・シェパードくんの殺害事件とともに、ヘイトクライム法の制定のきっかけとなった。
(といっても、日本ではあんまり大きなニュースじゃなかったかもしれない)

ブルーワーも、21日に処刑された。
直前のインタビューで
As far as any regrets, no, I have no regrets.
I’d do it all over again, to tell you the truth.
という言葉を残して。

まだある。
テキサス州には、死刑囚が自分の「最後の食事」を選べるという伝統があったのだが、ブルーワーは
「チキン・フライド・ステーキ2切れとグレービー、玉ねぎのスライス、トリプル・ミート・ベーコン・チーズバーガー、ひき肉とトマト、玉ねぎ、ベル・ペッパーとハラペーニョのオムレツ、フライド・オクラとケチャップ、バーベキュー肉1ポンドとパン半斤、ファヒータ3切れ、ピザ、ブルー・ベル・アイスクリーム1パイント、厚切りのピーナッツバター・ファッジにつぶしたピーナッツをかけたもの、ルートビア3本」
という夕食をオーダーし、一口もつけることなく死刑台にのぼっていった。
そして、これを聞いて怒ったテキサス州上院議員のリクエストにより、テキサスの死刑囚は最後に好きなものを食べられるという80年以上続いた伝統は、あっさりと廃止されてしまった。

どこまでヒドいの、というくらいのjack assである。
死刑に使われる薬物注射を仲間への手紙のなかで「睡眠薬くらいのもんだ」と呼んだというブルーワーはこうやって、自分を罰しようとする社会に思い切り中指を立てて、死んでいったわけです。
ティモシー・マクベイのケースを思い出した。
こういう人間の前では、「死刑は究極の罰である」という考え方はまったく意味をなさないことになる。

ちなみにバードさんの遺族は、 Murder Victims' Families for Reconciliation(日本語では和解のための殺人事件被害者遺族の会と訳されることが多いようです)に参加していて、ブルーワーの死刑にも反対を表明してきた。
テレビに出ていたバードさんのお姉さん(妹さんかもしれない)は、ブルーワーのことを「裁判のときからずっと許してきた」と言っていた。
それでも、この週、死刑関連のニュースで主役だったのはトロイ・デイビスだった。
ブルーワーの死刑についてのカバレッジは、トロイ・デイビスのそれに比べてずっと少なかった。
メーリングリストなどに登録しているさまざまな人権団体からは、トロイ・デイビスについてのメールはたくさんきたけれど、ブルーワーやバードさんの遺族についてのメールは一通もこなかった。
理由はわかる。
ブルーワーのケースは、死刑廃止運動という観点からいうと材料として弱いし、こいつのことを話題にするだけで本人のおもうつぼに陥る気もする。
でも、なんかそこに現行の死刑廃止運動の限界を感じたのでした。

私が死刑に反対な理由はシステム上の欠陥や公平性の欠如によるところが多いし、どうしようもないモンスターを「許してあげましょう」思える境地にはほど遠い。
が、家族の一員が白人至上主義者の手によって凄惨なリンチをうけたうえに殺された、そんなことを経験したうえで、「許した」という境地に至ったバードさんの遺族の言っていることこそ、耳を傾けるべきなのではないか。
9月のある日の夜、被害者の遺族の意志とはまったく関係ないところで、「合法な」手続きを踏んで行われた処刑2件をみて、そんなことを考えていたのでした。

2011年9月8日木曜日

Sumally なう。




夏休みから戻ってきました。
いつも雑然とした生活を送っているので、まとまった休みをとるのがなかなか苦手なのですが、今、新しいことを始めようとしていて、心を落ち着ける時間が欲しかったので、エイっとキャンプ旅行に行ってきました。
信号のひとつしかない島で何日かを過ごし、お友達の湖畔の家でサウジアラビアで違法に作られたお手製のアルコールをごちそうになったり、帰りに友達のDIYフェスティバルによって音楽を楽しんだり、男子たちのパイ食いコンテストに抱腹絶倒したりしながら、1週間強、満喫して帰ってきました。
たまに頭をからっぽにする時間をもつと、いろんなことがまた新しい角度から見えてくる気がします。

さて。
私が休みに出ているうちに、弟分のような山本憲資くんが、Sumallyという新しいSNSをはじめていました。
ずいぶん前に、こういうサービスを始めようと思う、と聞いたときには、友達として応援するよとは思ったけれど、正直、いまひとつピンとこなかった。
人に見せられるようなモノもってないしって。
しかし、これが始めてみると意外に楽しいのである。
あの人、こんな本読んでるんだ、とかこんな音楽好きなんだ、という発見だけでもけっこう楽しめる。

ちょっと前に、アーカイビストと呼ばれる職業の人に取材するチャンスがあった。
そのときに、自分がアーカイブするという行為がものすごく苦手だということについてぼんやり考えていた。
自分が書いた雑誌の記事だってどんどん積み上がっていくばかりだし、引越しを繰り返して、箱に入ったままの本や雑誌の類もわんさかある。
そんなことを考えているうちにサマリーが登場した。
こりゃあもしかすると、自分の持ち物をアーカイブするチャンスかもしれないぞ、なんてぼんやり思っています。
というわけで、みなさん応援してあげてください。

2011年8月20日土曜日

West Memphis Three と死刑制度

先日、自分にとってとても特別なことが起きました。
日本では知ってる人はほとんどいないと思うけれど、「West Memphis Three」と呼ばれる、殺人犯の汚名を着せられ(とあえて言わせていただく)、そのまま18年も服役していた3人組の男子が釈放されたのです。

そもそも事件が起きたのは1993年。
場所はアーカンソー州のウェスト・メンフィス。
8歳の少年3人が遺体で発見され、その姿があまりに無残だったので、かなりのニュースになったらしい。
そして、その地域でよく問題を起こしていた、16歳から18歳の少年3人が捕まった。
問題っていっても、万引きとかケンカとかそういう類のことである。
でも、ヘヴィメタルのファンだったということから、サタン主義の儀式で子供を殺したのではないかというセオリーが浮かび上がった。
警察は3人のうちで一番IQが低い少年を12時間勾留して、自白を強要し、彼はついに自白してしまった。
とまあ、いろいろあって、確たる物証もないのに3人は有罪判決をうけた。
おまけに「首謀者」とされたデイミアン・エコルスは死刑判決。
デイミアンの友達だったジェイソン・ボールドウィンは終身刑、すぐに撤回したものの自分の自白が友達の裁判に使われちゃったことから、二人とは別々に裁判にかけられたジェシー・ミスケリーは終身刑+40年の判決を受けました。
というのが、ごくごく簡単な事件の概要。

私がこの事件を知ったのは確か98年くらいだったと思う。
1996年にHBOが「パラダイス・ロスト」というタイトルのドキュメンタリーを作って、それを再放送で見たのでした。
そもそもの事件の残忍さ、裁判のいい加減さ、デイミアンのカリスマ、それから登場する関係者の何人かの特異なキャラクターと、不謹慎な言い方をすれば「事実は小説よりも奇なり」的要素がわんさか揃っていて、事件に夢中になった。
そして、捜査がどれだけいい加減に行われ、自分と同世代の男子たちが「魔女狩り」のスケープゴートになったかを知って怒りに打ち震えた。
「パラダイス・ロスト」のトレーラーはこちらから。

ちなみにウェスト・メンフィスは、ドキュメンタリーなどで見るかぎり、この世の終わりみたいなひどい場所だ(そばまでは行ったことがあるけれど、この街には行ったことがない)。
ウィキペディアのページに平均所得27,399ドルと書いてあるのを見て、意外に多いなと思ったくらいである。
貧しいわりには、カジノなんかがあって、犯罪率は全米平均よりぐんと高い、そんな土地柄である。

「パラダイス・ロスト」には、たとえば3人の無実を信じたメタリカが、初めて楽曲が映画に使用されることを許可した作品だったというようなエピソードもあったし、HBOが殺された少年たちの遺族と、有罪判決を受けた男子たちに出演料に相当するお金を払ったことがのちに物議を醸したりもした。
そして「パラダイス・ロスト」の反響が大きかったものだから、HBOは2000年に続編を発表した。
続編はYouTubeですべて見られます)。
事件についての本も何冊も出たし、ディクシー・チックスやジョニー・デップといったけっこうな数のセレブが、彼らの無実を訴えるキャンペーンもした。
そして2007年に、新しいDNAテストの結果が明らかになり、彼らのDNAは現場にはなかった、ということまでわかった。
そして、今回の釈放につながった。

その日、私はハフィントン・ポストのツイートで、彼らが釈放されたことを知った。
そして釈放された彼らの記者会見を見た。
捕まったときはティーンエージャーだったのに、もうわりとおじさんになっている。
当たり前だよね、私と同世代だもん。
最初、記者会見を見始めたときは、よかったなあ、という気持ちだったけど、見ているうちに、だんだん腹がたってきた。
私が大学に行き、留学して就職し、3回転職し、結婚して離婚し、フリーになって何年も働いて、さんざんいろんなところに旅をし、飲み歩いたりしている間、彼らはずっと刑務所のなかにいたわけである。
やってもいないことのために。
DNAの結果がわかってから4年かかったのもすごいし、その間、その間ずっと、デイミアン・エルコスは、1日24時間のうち23時間を独房でたった一人で過ごしていたというのもヒドい。
しかも、今回の釈放には、「Alford Plea」という小難しい罪状認否の形が適用されて、「無実は主張するけれども、自分たちが有罪になるだけの十分な証拠があることを認識する」というわけのわからない、一応有罪だけど、服役しました、という形をとったのだという。
やってないことを認めることはできない、と言い続けたジェイソン・ボールドウィンが、今回の司法取引を受け入れた唯一の理由は、デイミアン・エルコスを死刑台から救うためだったという。
どこまで?というくらいの不正義である。

しかし、こういういい加減な裁判で「有罪」にされてしまう人が、この世の中にどれだけいるかと思うとぞっとする。
ウェスト・メンフィス・スリーの場合は、そもそも事件の注目度が高かったことや、ドキュメンタリーや、セレブのキャンペーンといった多くの要素が作用して、最終的にはこういう結果になったわけだけれど、たとえば死者が出てないケースや、軽犯罪系だったらいくらでもありそうである。
私はアメリカにきてから、死刑は廃止するべきだと考えるようになった。
警察や検察は横暴だし、裁判の結果は、どれだけお金をつぎ込めるかということに左右される。
裕福だったら死刑にはならない。
システムが機能している例も多数あるけれど、機能していない例も山ほどある。
検察が正義を追求したからといって、正しい結果に終わるとはかぎらない。
市民全員にフェアに適用されないんだったら正義とは呼べない。
そういうことを考えさせてくれた事件のひとつが、この事件だった。

彼らは、これからも戦い続けて、真犯人を見つけるつもりだという。
ちなみに、真犯人も、疑いの濃いと言われいる人物がいて、DNAの証拠もあがっている。
そして、この秋には再審も予定されている。
これから警察と検察の責任を問う声もあがってくると思う。
3人のティーン・エージャーから将来を奪った人たちが、どう責任をとるのか、見守っていきたいと思います。







2011年8月2日火曜日

グランドサークルへの旅/ブルータス

もう1週間近く経ってしまいましたが、6月にナバホ族の居留区を中心にグランドサークルと呼ばれるエリアをまわった旅が、誌面になりました。



行くたびにルートは違うけれど、ナバホの居留区を訪れたのはこれで4度目。
前回は、2008年の大統領選挙の前に、コヨーテの企画で全米を旅していた途中にカイエンテという街に立ち寄ったとき。
マクドナルドで中学生の女の子たちと知り合って、できたばかりのスケートパークに連れていってもらったのだった。
これだけあれこれめざましく変わる時代である。
3年も経てば、風景は変わらないにしても、どれだけ変わったかと恐れていたのだが、相変わらず電波のつながらないところは多いし、まだ多くの人が水道も通っていない村落で、ガス式発電機を使った電気を使って暮らしている。
このあたりは、ここがほんとにアメリカ?と思うような感じで、まったく違うペースで時間が流れているのです。
かつては大都会に暮らし、そのうち故郷にもどってきたというナバホの男性と話をしたときに、不便を感じない?と聞いたら、「We Navajos do with what we've got」という返事。
それまでのことなんだけど、あるものでなんとかするって、実はすごく大切なことな気がします。
今、原発をゆくゆくはなしにしていこうという意見に対して、「経済止まっちゃうけどいいの?」という意見を目にする。
そしてそこには、ナイーブな理想主義者に対するちょっとした上から目線を感じたりする。
けれど、過去のことはともかく、危ないとわかった手立てで電気を作り続けるよりは、あるものでなんとかできる方法を考えましょう、ということのほうがよっぽど現実的な気がする。
というようなことを、アリゾナまで出かけて考えてきたのでした。

と話はすっかりそれたけれど、2660キロ走って撮ってきた風景の数々が紹介されているので(写真は伊藤徹也さん)、よかったら手にとってみてください。

2011年7月27日水曜日

911とジョナサン・サフラン・フォア

今年は911の10周年です。
ちょっと前に実家に帰ったときに、911の直後に書いた文章が出てきて、あのとき自分が考えていたことを振り返ってはっとなったことがある。

あのときどれだけの人がニューヨークにいたのかわからないけれど、あのときここにいた人なら、あの事件を体験したことが、多かれ少なかれ、その後の人生に影響を及ぼした、ということは共感してもらえると思う。
それは、オサマ・ビンラディンとか、その後のアメリカの外交政策とか、陰謀論とはまったく関係のないところに存在する「傷」のようなものである。

最近はすっかり減ったけれど、その後、日本人と話をしていて、「あのときどこにいたんですか?」と体験談を求められることがたまにあって、そのたびに、本当だけれども、そんなに楽しくもない実話をしてきた(まあだいたい、そういう場合は、「怖かったけれど、大丈夫でした」的な話を期待されていることが多い気がする。知り合いが亡くなって、というと、急に気まずくなったりするので、そのへんの話はあまりしないできた気がする)。

細かい話は省くけれど、自分にとって一番大きかったのは、とてもちかしい人が、愛する人を失ったという事件だった。
そして、自分が愛する人が困っているときに、飛んでいけないという体験が、報道機関で働くことに対して疑問を抱かせたし、最終的には会社を辞めるという決断につながったわけで、その後の人生が大きく変わったということもあるし、もっと単純に無力感とか喪失とか、そういうたぶんこの事件がなくても生きていたら必ず味わうであろうことを、世界の歴史に残る事件とともに体験してしまったことで、インパクト倍増、といった感じになったのかもしれない。

「ものすごくうるさくて、ありえないほど近い」は、私にとって911を題材にした初めての小説だった。
何年か前に友達にもらって911がテーマになっているのを知らずに読み始めた。
そして、その話を、編集者の方にしたご縁で、今回、日本語版が刊行されるにあたり、帯に使うための文章を依頼された。



私がこのストーリーに引きこまれた理由のひとつは、とてもパーソナルなものだから。
そして、このストーリーはいったんは終わるけれど、物語はそのあとも延々続くんだということを考えさせてくれたから。
「傷」は時間が経てば癒えていって、痛む回数や思い出す頻度はちょっとずつ減るけれど、その「傷」はいつも自分のなかのどこかにあって、一緒に生きていくのだと思うから。
そういう意味では、911後のアメリカにまったく興味がない人でも共感できる作品だし、未曽有の大事件のあとで、痛みとどう付き合っていくかを考えるには良い材料になるのではないかと思う。
そして、このタイミングで日本語版の刊行を迎えたこの小説が、日本でどう読まれるのか、今、とても気になっています。

2011年6月21日火曜日

RagTag by Tao Okamoto and Fashion Friends for Save Japan!ビデオ

こうやって改めて書くと長いですね、イベントのタイトル。
ツイッターとかフェイスブックを見てくれている人はもうご存知かもしれないので、しつこいぞ、と思われるかもしれないのですが、ブログだけを見てくださっている人もいるみたいなので、こちらにも残しておきます。

NYでイベントをやるにあたって、TAOちゃんの動画メッセージを日本のみんなに届けたいと思ってビデオをお友達にお願いしたら、こんなショートドキュメンタリーになってきました。

Sunday at Saturday's (English Subtitles) from Jim Helton on Vimeo.



撮ってくれたのは、私のNYで一番旧い友達の一人、Jim Heltonと、彼が紹介してくれた写真家で映像家のAtsushi Nishijimaさん(ジマくんと呼んでいる)。
ジムは最近では映画「ブルー・ヴァレンタイン」の編集をつとめた腕利きだし、ジマくんもかなりの売れっ子である。
そんな二人がチャリティだということで、ボランティアで作ってくれたビデオは、NYの友人たちが、ちょっとずつ助けてくれたことで実現したイベントのエッセンスをよくとらえてくれているし、このビデオができたこと自体もまさにそのエッセンスだと思う。

これがきっかけで、今鋭意準備中のPeriscopeのビデオもひとつ作ってもらえることになった。
こういうオーガニックな人間関係の広がり方が、最近とみにうれしい。
というわけで、みていただけるととてもうれしいです。
ありがとう。

2011年6月15日水曜日

ギル・スコット・ヘロンと原発

先日、ギル・スコット・ヘロンが亡くなったことは、ご存知の方が多いと思う。
GSHには「黒いディラン」とか、「ラップの父」というまったく奇妙な代名詞がついていることが多くて、それには腹を立てたりもしているのだが、個人的には、多くの分野にクロスオーバーした詩の巨匠と認識している。

インタビューということでいうと、私はおじいさんフェチで、それは自分の知らなかった時代のことを知っているから聞きたいことが多いという理由なのだが、もちろんギル・スコット・ヘロンにインタビューしたいと思ったことはあって、I'm New Hereが出たときに、タイミングを見て申し込もうと、エージェントの連絡先をゲットしていたのだった。
が、実際にインタビューを申込む段階まで行かなかったのは、ニューヨーカー誌に去年の夏掲載されたプロファイル記事を読んだからである。
これには、GSHがインタビューにうんざりしている様とか、まだクラックをやっていたこととかがかなりリアルに描かれていて、よっぽど腰をすえてやらないとうまくいかないという気がしたのです。
付き合っていた女性ともめたり、ドラッグ所持で逮捕されたりするたびに、NYではニュースになっていたし、実際、ショーのチケットを買ったはいいが、当日にキャンセルされるようなことも何度かあったので、驚くべきことでもなかったのだが。
このプロファイルには、子供時代のことなども書かれていてとてもおもしろいので、時間がある人は読んでみてください。

GSHが亡くなったので、私もご多分に漏れず、GSHを聴きまくったりしてみたのだが、気がついたことがある。
それは、We Lost Almost Detroitという原発をテーマにした曲を書いていて、1977年に発表したアルバムのなかに収録されていたということである。
原発の事故というと、スリーマイル島の事故が世界初だと思っていたが、デトロイト郊外のエンリコ・フェルミ原子力発電所で1966年に炉心溶融が起きていた。
私もこれについてまったく知らなかったし、まわりに聞いてみても、知らない人が多いようである。

さらに調べてみると、1979年にスリーマイルの事故が起きて、そのあとにMusicians United for Safe Energyというグループができて、コンサートなどを企画した。
その9月には、20万人近くの人が参加するデモも起きた。
コンサートの様子がYouTubeにアップされていたので、ここにはってみます。


カルチャーが何をできるか、という問題は、私の大きいテーマのひとつである。
でもこうやっていろいろ見てみると、何か起きるたびに、この手の運動がたびたび盛り上がりつつも、結局、なにかが変わることはなかったのだと気がついて、脱力しそうになります。
が、今の日本がおかれているほどの緊迫性は、これまでなかったわけで、ネットで見た人も多いと思うけれど、大友良英さんがおっしゃるように、今の当事者性を、文化を使って世界に発信していけるのは今だけだという気がする。
そういうことを、ギル・スコット・ヘロンの「We almost lost Detroit」を聞きながら考えてみたのでありました。

2011年5月30日月曜日

初めてのチャリティでやりたかったこと〜RagTag charity sale報告

昨日、RagTag by Tao Okamoto and Fashion Friends for Save Japan!が無事に終了しました。
震災が起きて、ニューヨークの仲間で何ができるかを話し合い始めたのが、2ヶ月くらい前。
モデルのタオちゃんからのアイディアで、モデルさんたちの私物でフリーマーケットをやれないかと準備を始めたのが1ヶ月半ほど前でした。
たった5人の小さなチームで始めたことに、いろんな人が助けを貸してくれ、モデル、スタイリスト、エディター、デザイナーたち70人から集まったものの数は700点以上。
予想以上のモノが集まったので、前日の値付けが終わったのは深夜1時すぎ。
当日も10人以上のボランティアが、汗だくになって働いてくれました。

タオちゃんがブログにも書いてくれたとおり、予想以上のハードワークに何度もくじけそうになったし、モノが足りないんじゃないか、誰もこないんじゃないかと、終わるまでハラハラドキドキの展開。
個人的には、木曜日の集荷の最中に、車を消防車にぶつけられたりのエピソードもあったりして(おかげで、ハンサムな消防士さんたちに囲まれて素敵なブレイクとなったけど)。
でも会場を貸してくれたSaturday Surf NYCや、Models.com、Style.comなどでも告知してくれたおかげで、連休中だというのに、会場の温度が上がって汗だくになるほどたくさんの人がきてくれました。

参加メンバーのなかでも、それぞれいろんな思いがあったと思うのだけれど、個人的な気持ちでいうと、
1,参加者や協力者の負担はなるべく小さく
2,来てくれるお客さんのこともベネフィットできる
3,かつ震災でまだまだ支援が足りないということを、こっちの人たちにも思い出してもらいたいということをずっと考えていました。
というのも、やっぱりこちらの報道をみていると、日本の震災のことは減る一方。
震災直後こそ、たくさんのチャリティがあったけれど、いくらニューヨーカーがチャリティ好きといっても、支援して!というのもだんだん申し訳なくなってくる。
でも、被災地はまだ大変なんだよ、というメッセージを発信し続けることが大切だと思ったのです。

ヒントになったのは、前にも書いたビヨーク主催のハイチのためのベネフィットショー。
ハイチで地震が起きたのは2010年1月。
ショーがあったのは5月。
けっこう時間が経ってるなと思いながら出かけて、参加者も楽しければこれだけの人がきてくれるんだと思ったことが小さなヒントに。

なるべくたくさんの物を買ってもらえるように、値段は低めに設定しました。
たとえばロダルテのドレスは200ドル台、新品同様のミュウミュウのバッグは300ドル、というように。
来てくれた人、ボランティアしてくれた人たちに「楽しかった」と言ってもらえたのはほんとにうれしかった。
もちろん反省すべきところ、振り返ってもうちょっとうまく仕切れたかなと思った点もたくさんありました。
また次もやってねという声も聞こえてきたのだけれど、今後どういう形で何ができるか、これからみんなでまた考えたいと思います。

ちなみにこれはあくまでも
写真、ビデオ、公式なレポートは、これとは別途Save Japan! のサイトにアップします。
助けてくれたみなさん、きてくれたみなさん、取材してくれたみなさん、本当にありがとう。

2011年5月17日火曜日

「チャイナ・シンドローム」とアメリカの原発世論

週末、ペンシルバニア州のスリーマイル・アイランド周辺の地域に取材に行ってきました。
今回は週刊朝日のお手伝いとして行ったので、詳しい取材の内容は差し控えますが、帰ってきてから現地で何度か話題に出た「チャイナ・シンドローム」を見た。



この映画が公開されたのが1979年3月16日。
スリーマイル・アイランドの事故が起きたのが3月28日。
ものすごいタイミングで事故が起きたために、予想以上にヒットしちゃって、アカデミー賞で多数のノミネーションを受けたといういわくつきの作品である。

女性リポーター(ジェーン・フォンダ)が、原子力発電所に取材に行き、たまたま緊迫した場面に居合わせる。
撮影したテープを放映しようとするが、上司を通じて電力会社からの圧力がかかり放映できない。
怒ったカメラマン(マイケル・ダグラス)がテープを盗み、彼女がその状況に対処しようとするうちに、発電所の危険を知ってしまう・・・という話である。

この映画が公開されたあとに、実際に初の原発事故が起きたと思うと、ときどき世の中には奇妙なめぐりあわせが重なるもんだと思う。
が、結局、その後のアメリカの反原発運動は、一度はある程度の盛り上がりを見せたものの、その後、沈静化して、局地的な感じに収束してしまい、(間をかなり乱暴に省略すると)今にいたったということはみなさんご存知の通りです。

で、映画を見て感じたこと。
まずひとつには、映画での原発の描かれ方がハリウッド流でやっぱりリアルじゃないということである。
当時はアカデミー賞の美術部門にノミネートされたらしいんだが、今みるとセットが妙にちゃちい(これは30年前のセットだからしょうがないともいえる)。
そして事故が起きそうになったときの様子なんかも、妙に過剰にドラマチックで、現実感にいまひとつ欠ける。
あまり知識のない人がみたら「原発けしからん」となるかもしれないが、ある程度、知識のある人だったら、?と思うのではないかというシーンが多々ある。

それから、原発反対派の若者たちが、公聴会に参加して、反対を表明するシーンがある。
もちろん反対の理由などを説明するのだけれど、政治運動としては効果が低そうなパフォーマンスをするのです。
当時の反原発運動は、反戦、反核の運動と強く結びついて行われたことが垣間見える。
そして、当時リベラルのシンボル的存在だったジェーン・フォンダが出ていることやストーリー展開から、この映画の作り手が反原発のリベラルな思想の持ち主だと推測すると、運動家たちがラディカルで現実感のないキャラクターに見えてしまうのは皮肉なことだ。

福島のことが起きるまでは、私のこの国の原発世論については新聞などでたまに読む程度で、実際、あまり知らなかった。
最近の空気感については、冷泉彰彦さんがニューズウィークのコラムに書いていて、参考になります。

スリーマイルの事故が起きた当時のことを覚えている世代と話をすると、気がつくことがひとつある。
それは、アメリカにおいて原発を受け入れてきたコミュニティや原発支持派が優勢なコミュニティは、だいたい保守的な農村部だということだ。
しかも1970年代前半には第四次中東戦争をきっかけにOAPECが禁輸措置をとるようになり、エネルギー依存からの脱却が叫ばれていたために、原子力発電は「愛国的」だと喧伝されていた。
保守派の優勢な地域で、原発が受け入れらた裏には、こういう時代背景があった。
そして、反核、反戦運動と結びついた反原発運動に対する反感があったことは容易に想像できる。

この2年弱、GQ Japanで「アメリカ自家中毒」というタイトルのコラムを書かせていただいてきた(次号から別の連載になります)。
毎号、何かをテーマに、右派と左派が喧々諤々やりあう様子をレポートしてきたのだが、左派が言っていることと、右派が言ってることの乖離があまりに激しくて、よくひとつの国として成立しているもんだと思いながら書いてきた。
そして、「チャイナ・シンドローム」を見て、それは70年代も、今も、ほとんど変わらない現実なんだと気がついた。

2008年の選挙を控えた夏に、雑誌「コヨーテ」の企画で、市井のおじさんおばさんたちを取材しながら全米を旅したときにも、同じ感覚を覚えたことを思い出した。
田舎の暮らしの現実と、都会の人の現実はあまりにも違う。
ジェーン・フォンダやマイケル・ムーアのようなリベラル代表選手の主張が、こういう場所の人たちの耳に入らない理由がよくわかるのです。
多くの問題について、私は左派の考え方にシンパシーを覚えることが多いけれど、方法論として、理想主義的すぎたり、ナイーブだったり、急進的すぎたりすると、実際の変革に結びつくのは難しい。
当事者不在で議論が進んでしまうからだ。
ということを、スリーマイル周辺の地域を訪ねてみてあらためて実感した。

今、日本のエネルギー政策が岐路に立たされているとしたら、当事者不在で話が進まないことを祈る。
福島の人たちだけでなくて、日本中の原子力発電所と共存している人たちも。
そして、日本が今置かれている状況を、世界にきちんと発信してほしいと思う。
今日本で起きていることは、ドイツなどをのぞいたら、世界の原発世論の大きな流れを変えるには至っていない。
でも、好む好まざるにかかわらず、世界のエネルギー政策の今後を左右する、重要なリファレンス・ポイントになる可能性があるのだ。
スリーマイル島周辺地域を訪ねて、「チャイナ・シンドローム」を見て、そんなことを考えた。

2011年4月23日土曜日

ティム・ヘザリントンの死に寄せて

震災以降、すっかり日本に夢中になっていたら、お別れが突然思いもしない方向からやってきた。
リビアでの戦闘を追いかけていた写真家でジャーナリスト(という呼び方を本人は嫌っていたけれど)のティム・ヘザリントンが、4月20日に死んでしまった。



私は彼の死を、バニティ・フェアのツイッターで知った。
「まだ確認がとれない」というツイートをみて、共通の友人に電話し、どうやら本当らしいと聞かされた。
すぐにハフィントンポスト、ニューヨーク・タイムズが速報を出して、彼の死が一気に現実になった。
フェイスブックの彼のページがお悔やみの言葉で埋め尽くされ、CNNのアンダーソン・クーパーが、彼の死についてツイートし、ホワイトハウスが声明を出して、彼が世界にとってどれくらいスペシャルな人間だったかを知った。

日本で知っている人は少ないと思うのだが、彼はリベリア、コートジボワール、ダルフール、スリランカ、アフガニスタンと多くの紛争地域で活躍してきたフォトグラファーだ。
アフガニスタンを舞台にした映画「Restorepo」で、今年のアカデミー賞にノミネートされた。
リベリアの内戦を追いかけたあとは、数年間カメラをもたずにリベリアに暮らし、国連の調査団の一員として内戦の遺産についての調査に携わっていたこともある。
右のアマゾンのボックスのなかに入っているお気に入りの写真集のひとつ「Infidel」はティムの作品だ。

彼と出会ったのは、友達のドキュメンタリーフィルム・メーカーに、「絶対君が気に入るヤツがいる」といって紹介された2008年だ。
ティムがアフガニスタンからもどってきて、セバスチャン・ユンガーと映画「Restorepo」を作っているときだった。
会ってすぐ好きになり、あらためてインタビューの機会を作ってもらった。
最初にインタビューしようと思ったのは、ティムの戦場ジャーナリズムに対するアプローチが一味違っていたからだ。
リベリアやコートジボワールの内戦で、たまたま生きていたらまわりで戦争が始まってしまった、という普通の人々の日常をとらえる写真を撮っていた。
まわりで戦闘が行われているさなかに、うっとりキスをするカップルをとらえた写真が印象的だった。

それから、たまに連絡をとりあう関係が続いていたが、今準備をしているインディの電子書籍PERISCOPEを始めることを決めたとき、真っ先にティムに会いにいった。
雑誌のコンセプトを説明し、0号に協力してほしいというと、無条件でOKしてくれた。
電子書籍の構成を一緒に考える作業のなかで、ティムが自分の時間にどれだけジェネラスな人かを知った。
彼のロフトによると、いつも見つけたばかりのアート本や、読んでいる本の話を、目を輝かせながらしてくれた。
PERISCOPEのローンチのときには、一緒に日本に行こうよという話まで出ていた。
彼がリビアに発つ前に、素材のやりとりの作業が無事に終わり、素材の受け取りをやっていた電子書籍チームの一人から、ティムがリビアに行ったことを聞いた。

ティムのことをバニティ・フェアのエディターであるグレイドン・カーターが
「about as perfect a model of a war photographer as you’re going to find」と書いている。
ティムが特別だったのは、善悪のジャッジを写真に表現しなかったことだ。
リベリアの写真でもそうだったし、アフガニスタンで撮った写真でも、映画「Restorepo」でもそうだった。
ジャーナリズムやビジュアル・コミュニケーションのあるべき姿には厳しい意見を持っていたが、モラル・ジャッジメントには反対だった。

2008年にやった最初のインタビューは、今準備をしているインタビュー集に入ることになっていて、先月ちょうどそのインタビューのゲラが戻ってきたところだった。
そのなかで、とてもティムらしいと思う一節があったので、英語のまま紹介したい。
(上に書いた、リベリアでのカップルの写真の話)

People assume I cover war because I want to show that war is bad.
People who have never been to a war think wars are bad.
I mean war is kind of bad, but there is also something else about war they don’t know because they have never been there.
If you look at this photo, this is in the middle of war and you have a moment of real tenderness between two people, which is about love.
It is interesting to go to a war situation and to show that, even in the extremities of human activity like war, there can be a moment of tenderness.

他人ごとと思ってしまいがちな、ものすごく遠くの国で起きている戦争のことを、誰にでも通じるタームで伝えようとした人だったと思う。
ティムの写真を見ては泣き、最後の瞬間についての記事を読んでは泣き、みんなが書いてる追悼文を読んでは泣いていたが、この原稿を読みなおして、彼が世の中に伝えたかったことを、伝えるメッセンジャーになることが、残された人間たちの義務だと思えるようになった。

ティムとアフガニスタンに行き、極限の状態を一緒に生き、映画のディレクターを一緒につとめたセバスチャン・ユンガーが、追悼の文章を書いている。

余談になるけれどティムが死んでしまった日、飲みに行って泥酔し、帰宅してまたひととおりめそめそしているときに、このあたりでちょっと有名なミュージシャンがガンで死んだという話を聞いた。
私は直接は知り合いじゃなかったけれど、地元の人気者だ。
ちょっと前に、ガンが発見されたためにツアーに参加できないという話を聞いたばかりだった。
どういうふうに生きても、いつかは死んじゃうんだったら、めそめそするより、一生懸命生きるしかない。
最後にサノ☆ユタカさんが、お友達を亡くして最近書いたつぶやきで今日のブログは終えたいと思う。

2011年4月17日日曜日

映画Bill Cunningham New York

しばらく仕事ばかりして、イヤになると深夜に飲みに行くというバランスの悪い生活をしていたのだが、ちょっと落ち着いたので、本を読んだり映画を見たりしようと努力をしている。
しかも、震災以来、日本のことばかりを考えていて、ニューヨークに住んでいることと無関係な仕事が多かったので、自分はなんでニューヨークに住んでいるんだっけ、と軸足が定まらない気持ちになってきた。
というわけで、遅ればせながら焦って見に行ったのが、「Bill Cunningham New York」であります。

日本ではもしかしたら聞きなれない名前かもしれない。
が、仕事はきっとどこかで目にしたことがあるはず。
そして、ニューヨークに住んでいたら、どこかで見かけたことがあってもおかしくない。
ニューヨーク・タイムズのSunday Styleで、On the streetというシリーズをもううん十年以上もやり続けている写真家である。
今でこそすっかりメジャーになった、ストリートスナップの元祖といえばこの人だ。
On the streetは、最近オーディオ付きのマルチメディア版をやっていて、これもなかなか素敵でおすすめである。

この手のドキュメンタリーでは珍しいのだが、不覚にも泣いてしまった。
それも号泣。
ビルは、毎日ストリートに出て、人の(ファッションの)写真を撮る。
ファッションや社交界のイベントにも出かけていって写真を撮る。
ファイルキャビネットがひしめく質素なアパートに(あるのは)ひとりきりで暮らしている。
完全な独立性を確保するために、どんなに勧められても食事はおろか、水すら口にしない。
テイクアウトのご飯をオフィスで食べてから、派手なパーティに出かけていくのである。
彼の笑顔や仕事ぶりを見ていると、贅沢なご飯とか、ラグジャリアスな暮らしに負けないくらい豊かな暮らしなんだろうと思う一方、でも同時にものすごく孤独に見える。
人が何に突き動かされ、何のために生きるのか、という普遍のテーマを、ビル・カンニガムという人を通じて追いかけたこの作品は、私が思う正統派のストーリーテリングの理想型だった。

唐突だけど、ファッションって、私にとってはちょっぴり複雑な問題である。
自分は見るのも、買うのも、着るのも好きだ。
でも心のどこかでファッションは(日本ではそれほどでもないけれど)、一部の特権階級のものだという気持ちが心のどこかにあるし、年に2回のコレクションが世界をまわる巨大なマシーンみたいになっている現行のシステムにも疑問を感じることもある。
おまけに、ファッションそれ自体よりも、作っている人に興味を持ってしまいがちである。
でも、一方で、ファッションって、誰にでもできる表現方法でもある。
どんなに「ファッションに興味がない」という人でも、世の中にある多くの洋服のなかから、自分が着るものを選ぶ。
そんなわけで、ファッションとは? なぜ人がファッションにそこまで魅せられるか、というのはいつも考えていることのひとつなのだが、ビル・カニングハムがまた新しい答えのひとつをくれたような気がする。

というわけで、トレーラー。
トレーラーに、映画の一番いいシーンのひとつが入っちゃってるからちょっともったいないのだが。

日本では公開が決まってないのかな。
ネットでみたかぎりは決まってないようですが、間違いないですよ、この映画。

2011年4月14日木曜日

そらのーとについて考えたこと

大入稿祭りをようやく切り抜けたときに、震災が起き、帰国し、戻ってきたときにはまた入稿があって、ついつい忘れかけながら、ずっと意識のどこかで考えていたことがある。
それは、そらのーとの事件である。

私のブログを読んでくれている人には知らない人も多いと思うのだが、この事件についてはいろんなところでまとめられているし、当事者の間でまだ解決していないようである。
事件の概要を私がまとめたり、特定の記事を貼ったりすると、なんだかおかしなことになってしまいそうなので、そのへんは割愛します。
ネットで検索してくれればすぐわかります。

5月号のヴォーグで、デジタル別冊の鼎談の取材というお仕事をさせていただいた。


鼎談に参加したのは、メディア・ジャーナリストの津田大介さん、コンデナストの田端信太郎さん、そらのーとの広報そらのさん(本名は佐藤綾香さん)である。

私はどっちかというとデジタルの世界では後のほうに参入したほうである。
ネ申とか、増田とか、デジタル社会特有のスラングも最近までよくわかってなかったくらいなのだが、たぶんカルチャーやファッション方面では、デジタルに強いと思われているようで、編集者の方がたまたま東京にいた私に声をかけてくださった。
ヴォーグがデジタル別冊か、と思うかもしれないが、ちょうど10年前にEヴォーグというのをやったらしく、それでまた、という流れだったようです。
(ちなみに10年前のEヴォーグでは、高城剛さんがおもしろいことを言っており、鼎談のときにはそれで盛り上がったのですが、それは雑誌に書いていあるのでそちらをどうぞ)

で、ちょうど校了のぎりぎり前くらいのときに、そらのーとの事件があって、密かにドキドキしていたのだが、それは月刊誌の宿命だし、まあ事件が起きたからと言って変わるようなことは書いてなかったので、ほっとしたりしつつも、そんなこともあって、この件の展開をネットで追っていた。

そもそも、長い間2ちゃんねるのあるデジタル社会は怖いところだと思っていて、なんとか自分を奮い立たせておっかなびっくりブログを始め、だんだん恐怖心を克服し、ようやく思っていたほど怖くないと楽しめるようになった臆病者なので、私にはそらのーとの事件が、「怖いネット」代表選手が、「意外と怖くなったネット」社会に殴りこみにきた、というようにみえた。

それはそれとして、鼎談のときには、ネットの匿名性という話に通じるような、日本人のウェブ上のアイデンティティの変貌の話題が出た。
かつてのデジタル社会では、ハンドルネームのもとに、リアルでの自分とは別の人格が生きられていた。
けれども徐々に実名化が進み、ツイッターの流行やミクシィの衰退につながっている。
その文脈の延長線上にそこにそらのーとの「ダダ漏れ」がある。
自分のナマのアイデンティティを、あまり加工しないで、ネットに流しているそらのさんに興味を持つ人が増え、「ダダ漏れ」が支持されたことは、田端さんの言葉でいうと、「デジタル社会の最先端は生々しいんですよ」ということになる。

そらのーとが「メディア」かどうか、という議論は、今回の騒ぎの周辺でもされていた。
編集権を放棄しているものをメディアと呼べるのか、ということである。
そういう意味では、メディアと呼べないのかもしれない。
ただ、「ダダ漏れ」の生々しさが支持された事実はそこに厳然とあるわけで、支持された文脈については覚えておくべきかなと思う。

そんなことに留意しつつ、10年後、デジタル世界のアイデンティティがどう変貌しているのかを考えると、ちょっとわくわくするのである。

2011年4月5日火曜日

東京滞在記

5日間といういつもより短い日程で東京に帰ってきました。
いいタイミングでいくつかのお仕事でお声をおかけいただいて、今なら帰れるかも、と数日前に決定し、慌ただしく出発した。
あとで気がついたのだが、震災を経て、やっぱり家族や友達の顔を見たかったのだと思う。

今回は、茂木健一郎氏、Save Japanのムラカミカイエ氏、Civic Forceの大西健丞氏氏、Just Giving の湯本優氏にインタビューさせていただいた。
海外に住んでいるのに、こういうタイミングで震災についてのインタビューにお声をおかけいただけるとはありがたいことである。

いつもよりちょっぴり暗い成田空港に到着し、その日の夜の打ち合わせを終えて、11時頃、いっぱい飲もうかとしたときに、いつも連れてってもらう深夜営業のお店が終わっていた。そして、あ、そういうことかと実感した。
でも翌日は、ご飯を食べようと思ったら、3軒続けて満席でまさかのディナー難民になりかけたし、金曜日に行ったairは驚くほど混んでいた。

airに行ったのは、☆タカハシタクさんのイベントがあったからだ。
タクさんがいて、自分のまわりに大切な友達がいて、わっさわっさと人がいるのを見て、一瞬急にセンチメンタルな気分になってしまった。
お祭りが中止になったとか、花見は自粛とか、そんな話をよく耳にする。
花見自粛の記事のなかで「被災地の人が辛い思いをしているときに楽しい思いをするのはどうも」というコメントを見た。
でも花見にしても、夜遊びにしても、別に単に「酒を飲んで遊ぶ」というだけじゃない。
友達の顔を見て、一緒にお酒を飲んで、不安な気持ちを共有したり、慰めあったり、安心したりするんだよ、とショットしながらセンチメンタルな気持ちで考えたのだった。
祭りの本質は遊びじゃないのだ。
都知事にしても、風営法にしがみつく人たちにしても、そのへんわかってないよなと思う。

夜の町は確かに節電でいつもよりちょっとだけ寂しく見えたけれど、クラブの人混みを見て、それから次の日の伊勢丹の込み具合を見て、東京は、少なくとも表面的には「日常」を取り戻しつつあるようにみえた。
でもなんとなく、遊びに行っていることとか、飲んでいることとか、言っちゃいけないような雰囲気があると思うのは気のせいか。
ツイッターをみていていも、飲んだ、食べた、遊びにいった、という話題は震災後減ったまま増えていないよね。

今回つくづく考えたこと。
日本人は忍耐強い。良くも悪くも。
今回いろんな人と会って、何人もの人が「被災したわけじゃないから」というのに気がついた。
確かに被災したわけじゃない。
しかし、大地震が起きて、日々余震に悩まされつつ、間引き運転の電車で仕事に通い、政府と東電はなんだがグタグタ感満載で、毎日テレビをつけるたびに原発の問題が前日と変わらない、またはさらに悪化している、という非日常を生きていてストレスがたまらないわけがない。
でも、被災したわけじゃない自分が、「日常」を生きることに罪悪感があるのである。

被災地のことはもとより、経済的な二次被害も深刻なことになりそうだ。
飲食にしても、アパレルにしても、3月の売上は大変だっただろう。
東北の工場が被災したことも、いろんな方面で影響が出ているらしい。
きっと他にもまだ目に見えない影響はあるんだろう。
引き続き、国内外からの義援金が集まり続けている。
でも海外での報道がすでに減り始めている今、義援金流入は減速するだろうし、復興にかかる費用を考えると、まだまだ足りないことは明らかである。
ということを、考えたり、会う人と話したりするうちに、自分のメンタリティがシフトした気がする。 
これまで自分は海外で起きていることを日本に紹介する人間として生きてきたわけだが、これからは日本のクリエイティブを海外に紹介することをもっと考えていこうって。
観光業は大打撃を受けているし、おまけに円高。
ずっと、日本の文化芸術の売り方は、まだまだ改善の余地があるなと他人ごととして思ってきたけれど、自分にも何かできるかもしれない。
というわけで、いろいろ考えています。

2011年3月13日日曜日

東日本大震災:911を体験して伝えたいこと

東日本大震災。

地震が起きた日、いつもより早く寝てしまったので、気がつかなかった。
起きて地震があったことを知り、家族に電話をしたのだがつながらない。
これまでいつも家族に心配される立場だったのが、初めて、心配する側の気持ちを味わった。
すぐにツイッターを見ればいいのだと思い、妹の行動をみて家族の無事を確認したけれど、家族と連絡がとれない間、デジャブのように思い出したのは、2001年9月11日のことだった。
あのときは、無事だよ、ということを伝えたくて、必死にリダイアルを押し続けたのだった。
思えば、あと半年であれから10年なんですね。

天災と人災という点で違うところもたくさんあるけれど、この日で確実に何かが変わった、という意味でどうしても重ねあわせてしまう。

10年前、私は報道の現場の片隅で生きていた。
そして911のテロが起きた。
知り合いではなかったけれど、会社の同僚が何人か亡くなり、親友のひとりが、婚約者を亡くした。
報道という業界なだけに、泣いたりパニックに陥ったりする暇もないまま、毎日機械的に出社して、夢中で働く日々が続いた。
そのうち炭疽菌事件が起きて、通信社だった勤め先に愉快犯からの白い粉が届いたりするようになり、わりと長い間、かなり緊張した状態で生きていた気がする。
今、あのときのことを思いだそうとすると、曖昧な部分も相当ある。
泣いたりパニックに陥ったのに、そのときの記憶がすっぽり抜け落ちてるのかもしれない

今回これだけの規模の大地震を経験して、犠牲者を多くだした上に、まだ安否確認もおぼつかなかったり、救援の手が届いていない場所があって、さらには原子力発電所の問題もあって、今、とても緊迫した状態にある日本をみて、自分の経験から、日本の友達に伝えられることがないかと考えてみた。
どうやら長期戦になりそうだから。
思い出してみたところ、曖昧な記憶ながら、あのとき、
初期のショック→団結したり、人の善意に感動したりする段階→だんだん政府の対応や一部の悪人たちに腹を立てる、という3つの段階を経たことを思い出した。
そして、自分の感情の起伏にびっくりしながら、長い時間かけて、いろんなことが変わってしまったことにアジャストしたような気がする。

そして、そのなかで学んだことをいくつか。
もしかしたら、わざわざ書くようなことでもないのかもしれないが、今、10年経って、こういうことを思い出したことは、自分にとっても意味があることだと思うので。

ーよっぽど無神経、不謹慎な例外をのぞいて、「こんなときに」と人を責めることで生むものはないということ。
惨事の受け止め方、悲しみや衝撃がやってくる速度は人によって違うし、インパクトもそれぞれ違う。
ここでいがみあっても、精神的な二次災害を生むだけだし、長期戦になるとくだらないことやユーモアが助けてくれる。

ーぴりぴりしているときの、ネガティブな感情は連鎖する。
わざわざ書くほどのことでもないのかもしれないけれど、「チンピラ記者」の会見をみて、つくづく。
有事の際には、政府にしても、マスコミにしても、市民が監視する必要性は高まるのだけれど、必要以上に声を荒らげたりすることで、生み出すものはない。

ーサバイバーズ・ギルトを感じないように。
こういうときって、被害が小さかったり、自分がうけた影響が小さかったりすると、なんだか罪悪感を感じてしまったりする。
逆に「お前にはわかんないだろ」もなし。
マスコミについて書いたツイートに返ってきたリプライに、「自分たちは無事だったんだから」という絡みリプライをされてむっとした。
別に自分たちが無事だったこととは無関係である。

ーそれから、自分がやってることに意味がないと思わないこと。
これ、私もよくやる。
カルチャーとか、ファッションとか、意味あるんだっけ?と思ったりする。
そしてやる気をなくしたりする。
でも、それぞれが与えられたことを淡々とやりつつ、前に進まないと「日常」には戻れない。

ーそして、どんなにトンネルが暗く思えても、いつか光は見えてくる。
あのとき、これから癒されるまでどれだけ時間がかかるだろうと思ったけど、やっぱりいつかは癒しのときがやってきた。それは「忘れる」ってことじゃなくて。

そして、最後に。
亡くなった方々のご冥福を心からお祈りします。

2011年1月21日金曜日

「犬の餓死という芸術」都市伝説の後日談

昨日のエントリーを書いたとき、「犬の餓死という芸術」についてのつぶやきがものすごい勢いで拡散されていたのを目の当たりにしていたので、「どうせ、ブログでちょろっと書いても意味ないだろうけど」と思いつつ、なんだか腑に落ちない気持ちを表現してみたのだが、たくさんの方が拡散してくれたおかげで、ブログの書き手の方が「フィクションのようですが」という但し書きを入れてくださった。
以前ご一緒したことがあるTech Waveの副編集長さんである増田真樹さんも、訂正ツイートを出してくださったし、((バズってる記事を自動ツィートするのはやめました))というつぶやきも出してくださった。
それでもまあ、力は小さくて、私が昨日のブログを書いたときに1700回だった、このエントリーがツイートされた回数は、その後ゆうに3000回を越えている。

昨日書いたときは、このストーリーを「フィクション」と呼ぶべきか「虚構」と呼ぶべきか迷ったけれど、あのあと気がついたことには、「都市伝説」という言葉が一番近いような気がする。
日本語って便利だなあ。

このブログを書いている方とも、ちょいとコメント欄上でのやりとりがあったのだが、
「ネットの中の大量の情報を、1つ1つ信憑性を確認していくことは
とても難しく、ガーデン紙の記者が書いていることも100%の
信憑性があるのかどうなのかわからないのが現状です。」
という反応が返ってきたときは、正直あっけにとられた。
ガーディアン紙(ガーデンじゃないよ)が書いていることがいつも100%本当かというと、それはそれで疑う目は必要だと思うけれど、一応イギリスの大新聞がギャラリーのオーナーのコメントをとって書いていることと、日本語ワールドに発生した出所のわからないストーリーと、どっちを信じるべきかは明白なことのような気がする。

でも、ウソをウソだって証明するのって意外と難しいんだな。
私、ツイッターで「年齢詐称している」的な言いがかりをつけられたことがあって、そのときにそれを「いや、ほんとに1973年生まれの37歳です」って証明しようと思ったら、戸籍でも公開しない限り無理じゃんって気がついた。
まあ別に、何歳って思われもいいじゃんって思って放置したんだけど、結局。

と話がそれましたが、昨日も書いたけど、何もこのストーリーが、芸術や人間の偽善について考えるべきことを提示しているのかもしれない、という部分を否定するつもりもない。
たとえば北久保弘之さんが、このブログのコメント欄に書いてらっしゃるコメント(「そもそも、好むと好まざるとにかかわらず餓死寸前の犬の力を借りなくては完成しない作品創りを「芸術」と呼ぶべきか?しかも本来の鑑賞者である来客の手を借りる事でしか完結しない一連の人、行動を「芸術」と呼ぶのか?」)など、考えるべきポイントはあると思う。

そして予想していたけれど、数多くの反応のなかには、フィクションだっていいじゃん調のものもあった。
「政治や経済の話とは違う」って。
でもまあ、このストーリーの大元には、実在するアーティストがいて、たとえ遠くの国のことで、日本語で書かれたことが彼に伝わることがなかったとしても、都市伝説が一人歩きした事実は知る必要があると思う。

それからもうひとつ感じたこと。
実際の展示が起きたときに、アメリカでも報じられてちょっとした騒ぎになり、署名運動にまで発展したという展開を、英語のソースで読んでるときにもちらっと思ったんだけど、舞台が途上国だってことで、そんな野蛮なことが起きても驚かないよという、ちょっとした偏見というか上から目線が、ちょびっとかもしれないけれどあるんじゃないかって気がした。

とりあえずこれをもってして、私も「犬の餓死という芸術」とはさようならしようと思うけれど、後日談ということでまとめてみました。

2011年1月20日木曜日

「犬の餓死という芸術」とツイッターのリテラシー

今日のお昼過ぎ、自分のツイッターTLに「あなたはどう思う? 「犬の餓死」という芸術」というタイトルのブログについてのつぶやきが流れてきた。
もちろんすぐにクリックしましたよ。
臨場感があってよく書けているし、描かれている内容はショッキングだし、人間として考えるべきテーマてんこもりな感じである。
しかし、なんだか違和感がある。
いくらなんでもこんなことまかり通るのかと思ったし、何よりも出典がない。

だから調べてみた。
そうしたら英語圏で語られていることはずいぶん違うことがわかった。
いろいろ読んでわかった(といっても、インターネットを使って「わかる」範囲のことだけど)のは、2007年にGuillermo 'Habacuc' Vargasというコスタリカ人のアーティストが、ニカラグアで、たしかに弱った犬を使って展示をした。
そしたらものすごい大騒ぎになって、100万人以上の人が展示をやめさせるための署名運動に参加した。
が、2008年になって、ギャラリーのオーナーが、展示に使われた犬は、展示の3時間以外の時間はつながれてもいなかったし、水も食料も与えられていた、と証言したのである。
この後日談は、いくつかの動物愛護団体のウェブサイトに載っていたので、もとをたどっていったら、ガーディアン紙の記事にたどり着いた。
しかもこのブログに書かれている後半の経過(展示中に犬を引き取る人があらわれたという流れから、「犬の餓死」が完成するまで)については、いろいろ探してみたけど、これについての記述がまったく見つからないのです。
となると、書き手の意図はおいておいても、断定はできないけれどこのストーリーはかなりの確率で虚構だということになる。
(ちなみに英語メディアでは、hoaxやstuntという言葉が使われていた。

2008年に書かれたこのエントリー、私が見たときには、1700回以上ツイートされている。
私が今日、最初にこれを見てからも、わりと影響力のある人達(フォロワーが何千人というレベル)がツイートしていて、すごい勢いで拡散されている様子が伺えた。
私のTLがに流れてきた部分については、RTしている人に「調べてみたらこうでした」というリプライを飛ばしたけれど、現時点では無反応の人もいる。
ちなみに、ここに書かれていることは、人間の偽善や芸術のあり方を考えるうえで、とても重要なことだと思うし、それを否定するつもりはない。
でも寓話だったら寓話としてプレゼンするべきだ。
ショッキングなのは、ちょっと調べたらすぐわかることが、チェックされることなくどんどん拡散されていくこと。
最初に「南米コスタリカでの話のようです」と心もとない記述があるし、出典もないのに、どうしてこれを読んで疑問を抱かないのだろうか?

先日、山崎正和氏が読売新聞に寄稿した文章の一部が、ツイッターワールドで話題になっていた。
「もう一つ心配なのが、大衆社会がより悪くなることだ。ブログやツイッターの普及により、知的訓練を受けていない人が発信する楽しみを覚えた。これが新聞や本の軽視につながり、「責任を持って情報を選択する編集」が弱くなれば、国民の知的低下を招き、関心の範囲を狭くしてしまう。ネット時代にあっても、責任あるマスコミが権威を持つ社会にしていく必要がある」
というあれです。
これについての反応は、トゥゲッターでもまとめられていたので、こちらを参照
社員のツイッターを禁止したという「疑惑」が取りざたされていた読売新聞なだけに大騒ぎになっちゃったわけだし、時代遅れだとか、上から目線と突っ込みたくなる気持ちをくすぐられるのだが、一部ではこれが「社説」として拡散されて、山崎氏の言っていることがはからずも証明されちゃったじゃん、という微妙な空気が流れたのだった。

ツイッターは、お!と思ったものをクリックひとつでRTできちゃうところが危険である。
私も、使い始めの初期には、ファクトチェックを怠ってはからずも間違ったことが拡散する一助になってしまったこともあるし、今も気がつかずにやっちゃってることもあるかもしれない。
でも、なるべく出典や出所は確かめるようにしている。
私がツイッターを使い始めたわりと初期の段階で、「ツイッターのユーザーはリテラシーが低い」と言ったエラい人がいた(結局、この人は今はツイッターのヘビーユーザーになってるけど)。
この人の言うとおりになっちゃったら悔しいと思う。
インターネットメディアの強みは自由なところだけど、自分たちで作っていかないといけないという責任がある。
今日そういうことを改めて思い出した。
自戒とともに。

2011年1月16日日曜日

「左翼リベラル」と呼ばれて

先日、ツイッターのタイムラインで話題になっていた見知らぬブログに、ついコメントともつかないようなコメント(「つい読みふけってしまった」)をしてしまったのがきっかけで、ご自分で「アメリカの極右翼です」とおっしゃっている方に、「左翼リベラル」と呼ばわりされる羽目になった。

たしかに政治思想的には、私は左のほうなんだろうよ、と思います。
いやでも、一応右のほうとされる新聞で働いていたこともあるし、小学館のSAPIOに原稿を書いたこともあるし、朝日新聞社関連の媒体に寄稿することもあるし、実際のところ、自分が「左翼リベラル」だと意識することは、ほとんどない。
アメリカに暮らす一人の人間として、医療は政府がやるべきことだと思っているし、そういってきたから、そういう意味では左ってことになるかもしれないけれど、かといって、民主党やオバマの政策に手放しで賛成するわけでもない。
個々の政策で判断するべきだと思うし、そういう意味では、そもそも、「右」「左」という分け方自体がもう今の時代にものすごくナンセンスな気がする。

ちなみに、他人のブログを批判したり、攻撃したりすること自体もあまり好きではないので、どうしても奥歯にモノが挟まったような言い方になってしまうけれど、私が一番びっくりしたのは、例のツーソンの事件を受けて、暴力を煽るような表現を規制する動きが出たことについて「惨事を無駄にしないリベラル」というタイトルで、右派に対する言論弾圧だ、という趣旨のエントリーが書かれていたことである。
ひとつの事象について、これだけまったく違う見方ができるということが驚きであった。
自分の主義主張と違う人を殺そうとした若者がいた、という事実に、右派だろうと、左派だろうと、政治家たちも衝撃を受けたから、規制しようという流れになったのではないかと思うのだが。
かといって、左側の言論で、共和党支持基盤の人々を見て、銃が横行する田舎の野蛮人たち、と上から目線で語っているのも、それはそれでなんか違う気がする。

昨日のニューヨーク・タイムズ紙によると、そもそもの標的だったガブリエラ・ギフォード議員は、半分ユダヤ系で、スペイン語を話すことができて、不法移民の学生に市民権を与える法案を支持していた一方で、国境周辺の警備の強化の支持者だった、死刑には反対だったけど、自衛権(銃を持つ権利)は支持していた。
これを読むと、彼女に「民主党議員」という枕詞を使うことが、あまりにもリアリティとかけ離れているような気がしてくる。
そもそも何について語るときでも、枕詞というものを使うこと自体が、一般化することでリアリティをそいでしまうのかもしれないけど。

ギフォード議員は、何度か強盗にあったことがあったらしい。
私はアリゾナ州を時間をかけて回った経験が3度あるし、アメリカの田舎を旅したり、人の家を訪ねるなかで、銃を目にしたのは、一度や二度じゃない。
オクラホマで泊めてくれた同世代のネイティブアメリカンの女の子家にライフルがかかっていたときに、それについてたずねると、「自分の食べ物は自分で狩るのが、私たちの民族の伝統」という答えが返ってきて、自分が「銃とともに生きる人たち」を、ある決まったステレオタイプで見ていたことに気がついてはっとなったこともあった。
個人的には、銃をもうちょっとうまく規制したら事件は減るだろうよ、と思うけれど、過疎の地域で自分の家を守っていくためには銃は必要だと信じている人たちの考えを、無下に否定することもできない。

この事件が起きるまで知らなかったギフォード議員の政治思想について読んで、「民主党」が一枚岩でないことがわかったし、共和党側にも、スコット・ブラウン議員とか、オリンピア・スノウ議員のように党派ラインと必ずしも一致しない考えを持つ人たちがいるということも、最近になって学んだことだ。
こういう人たちが新世代議員として登場していることを見ても、相手方の主張を「左翼だ」「右翼だ」と攻撃しあう政治のスタイルが、ものすごく古臭く見える。
そして、だからこそ、先日のオバマの演説は、左派右派を越えて、支持されたのだろうと思うのです。
政治の本来の目的が、人々の暮らしを改善することだということを考えると、主義主張に対するレッテル貼りほど無駄なことはないんじゃないかと思うのだが、どうでしょうか。

2011年1月9日日曜日

映画「愛する人」とナオミ・ワッツ

15日から公開される「愛する人」(原題Mother and Daughter)という映画がある。
邦題に対するつっこみはおいておいて、うーむとうなってしまう良い映画であった。

この映画について、ナオミ・ワッツにインタビューする機会に恵まれた。
映画についてのインタビューは、雑誌などに出たので割愛するが、ナオミは想像していたのとタイプの違う女性だった。
柔らかいのだが、芯の強いフェミニストタイプ。
たとえば男性をサポートするような役柄や、被害者の役柄をのぞいて、女優が演じることができる役柄がハリウッド映画において少なすぎるとぷんすか怒っていたり、「名前は言わないけど、女性をサポートする役柄はやらないという俳優さんって驚くほど多いのよ」と言ってみたり。
自分は母親になるという選択をしたけれど、「女性の多くは社会のプレッシャーを受けて、子供を持たないといけないという幻想に追い詰められる。女性だからといって母親にならなければならないというのはおかしい」という発言もあった。
そして、映画というものは、コミュニケーションの手段であって「映画を媒介に女性たちがいろんなことを考えられるチャンスになればいいと思う」。

今日、このブログの冒頭を書きながら、「良い映画だ」と思った理由はなんだろう、と自分の頭のなかを整理しようとしたのだが、インタビューの内容を頭のなかで辿るうちに思い出した。
この映画、どちらかといえば、暗くて辛いストーリーである。
Motherhood、母と娘の関係という大きなテーマがあって、そこにさらにティーンエージャーの妊娠とか、不妊症とか、養子縁組とかいろいろ複雑な問題が絡んでくる。
そういうことをなるべく先送りにしてきた30代後半女性としては、できれば避けて通りたいタイプの問題ばかりを取り扱っている。
それなのにこんな私をつかまえて「母親になりたいかどうか」という根本的な問題をとことん考えたほうがいいのではないか、と思わせてしまうパワーがあるのである。
ナオミがいう「コミュニケーションの道具」という役割をきちんと果たしている。
それ以外にも、アネット・べニングの天才的な演技とか、ナオミの童顔なのになんで?と思わせてしまう不思議なエロスとか、ほかにも見所は満載。
おすすめの秀作である。

2011年1月2日日曜日

今年もよろしくお願いします。














明けましておめでとうございます。

毎年のことながら、あれよあれよという間に1年が終わり、新しい年が始まってしまった。
年末風邪をひいたので、寝込んでいる間に宴会の大半を逃し、29日から宴会に参戦。
でも気がついたらもう2日。
今さらながらに年賀メールを書いたり、大掃除をしたりしている始末である。
おまけに明日からもう仕事が始まってしまうじゃないか。
新年からつまづいた感満載である。

思えば2010年はいろんなことを考えた年であった。
メディアの役割と将来、自分のライターとしての存在意義、都会での暮らし、ライフスタイル・・・と、いろんなことをたくさんのお酒を飲みながら、頭が痛くなるくらい考えた。
考えた結果、とりあえずは週末を自然のなかで過ごすことに決め、さらにはなんとか引越しを敢行してついにマンハッタンを脱出した。
そして、インディのデジタルマガジンPeriscopeを立ち上げることに決め、ブレーンストーミングを始めた。
こう振り返ってみると、いろんな意味で変動の1年だったのかも。

昨日、友達にNew Year's resolutionはなんだとたずねられて、まだそこまで頭が追いついてない自分に唖然となった。
とっさに「全部スキャンする」と答えたら呆れられた。
せめて『身軽に生きる』にしようことになりました。
これがひとつ。

今日になって、2011年をどう生きたいか、ということを真剣に考えてみた。
年末からちょろちょろ「マヤカレンダー」とか「2012年滅亡説」が耳に入ってくる。
「この世の終わり」といえば、前回は2000年になる直前だった。
Y2Kでトリップアウトしまくったサイケなみなさんのお祭り騒ぎを思い出したらノスタルジーでちょっと胸がきゅんとなった。
それで思い出すのはLive like there is no tomorrowというフレーズである(liveが入ってる動詞の部分はparty, drinkなどにアレンジ可能)
「刹那的」「やけくそ」に近い感じでちょいとネガティブなニュアンスを感じるときが多いけれど、マヤカレンダーを真剣に受け止めるべきかどうかは別として、明日がやってこない可能性は誰にでもあることを考えたら、明日がこない可能性を念頭に生きることは悪いことじゃない。
今年はマヤカレンダーにあやかって明日がやってこなかったとしても後悔しない勢いでいこうと思います。
具体的には、よく遊び、よく働け、やりたいことは全部やってしまえ、ということである。
というわけで、みなさん、今年もよろしくお付き合いください。