2011年4月23日土曜日

ティム・ヘザリントンの死に寄せて

震災以降、すっかり日本に夢中になっていたら、お別れが突然思いもしない方向からやってきた。
リビアでの戦闘を追いかけていた写真家でジャーナリスト(という呼び方を本人は嫌っていたけれど)のティム・ヘザリントンが、4月20日に死んでしまった。



私は彼の死を、バニティ・フェアのツイッターで知った。
「まだ確認がとれない」というツイートをみて、共通の友人に電話し、どうやら本当らしいと聞かされた。
すぐにハフィントンポスト、ニューヨーク・タイムズが速報を出して、彼の死が一気に現実になった。
フェイスブックの彼のページがお悔やみの言葉で埋め尽くされ、CNNのアンダーソン・クーパーが、彼の死についてツイートし、ホワイトハウスが声明を出して、彼が世界にとってどれくらいスペシャルな人間だったかを知った。

日本で知っている人は少ないと思うのだが、彼はリベリア、コートジボワール、ダルフール、スリランカ、アフガニスタンと多くの紛争地域で活躍してきたフォトグラファーだ。
アフガニスタンを舞台にした映画「Restorepo」で、今年のアカデミー賞にノミネートされた。
リベリアの内戦を追いかけたあとは、数年間カメラをもたずにリベリアに暮らし、国連の調査団の一員として内戦の遺産についての調査に携わっていたこともある。
右のアマゾンのボックスのなかに入っているお気に入りの写真集のひとつ「Infidel」はティムの作品だ。

彼と出会ったのは、友達のドキュメンタリーフィルム・メーカーに、「絶対君が気に入るヤツがいる」といって紹介された2008年だ。
ティムがアフガニスタンからもどってきて、セバスチャン・ユンガーと映画「Restorepo」を作っているときだった。
会ってすぐ好きになり、あらためてインタビューの機会を作ってもらった。
最初にインタビューしようと思ったのは、ティムの戦場ジャーナリズムに対するアプローチが一味違っていたからだ。
リベリアやコートジボワールの内戦で、たまたま生きていたらまわりで戦争が始まってしまった、という普通の人々の日常をとらえる写真を撮っていた。
まわりで戦闘が行われているさなかに、うっとりキスをするカップルをとらえた写真が印象的だった。

それから、たまに連絡をとりあう関係が続いていたが、今準備をしているインディの電子書籍PERISCOPEを始めることを決めたとき、真っ先にティムに会いにいった。
雑誌のコンセプトを説明し、0号に協力してほしいというと、無条件でOKしてくれた。
電子書籍の構成を一緒に考える作業のなかで、ティムが自分の時間にどれだけジェネラスな人かを知った。
彼のロフトによると、いつも見つけたばかりのアート本や、読んでいる本の話を、目を輝かせながらしてくれた。
PERISCOPEのローンチのときには、一緒に日本に行こうよという話まで出ていた。
彼がリビアに発つ前に、素材のやりとりの作業が無事に終わり、素材の受け取りをやっていた電子書籍チームの一人から、ティムがリビアに行ったことを聞いた。

ティムのことをバニティ・フェアのエディターであるグレイドン・カーターが
「about as perfect a model of a war photographer as you’re going to find」と書いている。
ティムが特別だったのは、善悪のジャッジを写真に表現しなかったことだ。
リベリアの写真でもそうだったし、アフガニスタンで撮った写真でも、映画「Restorepo」でもそうだった。
ジャーナリズムやビジュアル・コミュニケーションのあるべき姿には厳しい意見を持っていたが、モラル・ジャッジメントには反対だった。

2008年にやった最初のインタビューは、今準備をしているインタビュー集に入ることになっていて、先月ちょうどそのインタビューのゲラが戻ってきたところだった。
そのなかで、とてもティムらしいと思う一節があったので、英語のまま紹介したい。
(上に書いた、リベリアでのカップルの写真の話)

People assume I cover war because I want to show that war is bad.
People who have never been to a war think wars are bad.
I mean war is kind of bad, but there is also something else about war they don’t know because they have never been there.
If you look at this photo, this is in the middle of war and you have a moment of real tenderness between two people, which is about love.
It is interesting to go to a war situation and to show that, even in the extremities of human activity like war, there can be a moment of tenderness.

他人ごとと思ってしまいがちな、ものすごく遠くの国で起きている戦争のことを、誰にでも通じるタームで伝えようとした人だったと思う。
ティムの写真を見ては泣き、最後の瞬間についての記事を読んでは泣き、みんなが書いてる追悼文を読んでは泣いていたが、この原稿を読みなおして、彼が世の中に伝えたかったことを、伝えるメッセンジャーになることが、残された人間たちの義務だと思えるようになった。

ティムとアフガニスタンに行き、極限の状態を一緒に生き、映画のディレクターを一緒につとめたセバスチャン・ユンガーが、追悼の文章を書いている。

余談になるけれどティムが死んでしまった日、飲みに行って泥酔し、帰宅してまたひととおりめそめそしているときに、このあたりでちょっと有名なミュージシャンがガンで死んだという話を聞いた。
私は直接は知り合いじゃなかったけれど、地元の人気者だ。
ちょっと前に、ガンが発見されたためにツアーに参加できないという話を聞いたばかりだった。
どういうふうに生きても、いつかは死んじゃうんだったら、めそめそするより、一生懸命生きるしかない。
最後にサノ☆ユタカさんが、お友達を亡くして最近書いたつぶやきで今日のブログは終えたいと思う。

2011年4月17日日曜日

映画Bill Cunningham New York

しばらく仕事ばかりして、イヤになると深夜に飲みに行くというバランスの悪い生活をしていたのだが、ちょっと落ち着いたので、本を読んだり映画を見たりしようと努力をしている。
しかも、震災以来、日本のことばかりを考えていて、ニューヨークに住んでいることと無関係な仕事が多かったので、自分はなんでニューヨークに住んでいるんだっけ、と軸足が定まらない気持ちになってきた。
というわけで、遅ればせながら焦って見に行ったのが、「Bill Cunningham New York」であります。

日本ではもしかしたら聞きなれない名前かもしれない。
が、仕事はきっとどこかで目にしたことがあるはず。
そして、ニューヨークに住んでいたら、どこかで見かけたことがあってもおかしくない。
ニューヨーク・タイムズのSunday Styleで、On the streetというシリーズをもううん十年以上もやり続けている写真家である。
今でこそすっかりメジャーになった、ストリートスナップの元祖といえばこの人だ。
On the streetは、最近オーディオ付きのマルチメディア版をやっていて、これもなかなか素敵でおすすめである。

この手のドキュメンタリーでは珍しいのだが、不覚にも泣いてしまった。
それも号泣。
ビルは、毎日ストリートに出て、人の(ファッションの)写真を撮る。
ファッションや社交界のイベントにも出かけていって写真を撮る。
ファイルキャビネットがひしめく質素なアパートに(あるのは)ひとりきりで暮らしている。
完全な独立性を確保するために、どんなに勧められても食事はおろか、水すら口にしない。
テイクアウトのご飯をオフィスで食べてから、派手なパーティに出かけていくのである。
彼の笑顔や仕事ぶりを見ていると、贅沢なご飯とか、ラグジャリアスな暮らしに負けないくらい豊かな暮らしなんだろうと思う一方、でも同時にものすごく孤独に見える。
人が何に突き動かされ、何のために生きるのか、という普遍のテーマを、ビル・カンニガムという人を通じて追いかけたこの作品は、私が思う正統派のストーリーテリングの理想型だった。

唐突だけど、ファッションって、私にとってはちょっぴり複雑な問題である。
自分は見るのも、買うのも、着るのも好きだ。
でも心のどこかでファッションは(日本ではそれほどでもないけれど)、一部の特権階級のものだという気持ちが心のどこかにあるし、年に2回のコレクションが世界をまわる巨大なマシーンみたいになっている現行のシステムにも疑問を感じることもある。
おまけに、ファッションそれ自体よりも、作っている人に興味を持ってしまいがちである。
でも、一方で、ファッションって、誰にでもできる表現方法でもある。
どんなに「ファッションに興味がない」という人でも、世の中にある多くの洋服のなかから、自分が着るものを選ぶ。
そんなわけで、ファッションとは? なぜ人がファッションにそこまで魅せられるか、というのはいつも考えていることのひとつなのだが、ビル・カニングハムがまた新しい答えのひとつをくれたような気がする。

というわけで、トレーラー。
トレーラーに、映画の一番いいシーンのひとつが入っちゃってるからちょっともったいないのだが。

日本では公開が決まってないのかな。
ネットでみたかぎりは決まってないようですが、間違いないですよ、この映画。

2011年4月14日木曜日

そらのーとについて考えたこと

大入稿祭りをようやく切り抜けたときに、震災が起き、帰国し、戻ってきたときにはまた入稿があって、ついつい忘れかけながら、ずっと意識のどこかで考えていたことがある。
それは、そらのーとの事件である。

私のブログを読んでくれている人には知らない人も多いと思うのだが、この事件についてはいろんなところでまとめられているし、当事者の間でまだ解決していないようである。
事件の概要を私がまとめたり、特定の記事を貼ったりすると、なんだかおかしなことになってしまいそうなので、そのへんは割愛します。
ネットで検索してくれればすぐわかります。

5月号のヴォーグで、デジタル別冊の鼎談の取材というお仕事をさせていただいた。


鼎談に参加したのは、メディア・ジャーナリストの津田大介さん、コンデナストの田端信太郎さん、そらのーとの広報そらのさん(本名は佐藤綾香さん)である。

私はどっちかというとデジタルの世界では後のほうに参入したほうである。
ネ申とか、増田とか、デジタル社会特有のスラングも最近までよくわかってなかったくらいなのだが、たぶんカルチャーやファッション方面では、デジタルに強いと思われているようで、編集者の方がたまたま東京にいた私に声をかけてくださった。
ヴォーグがデジタル別冊か、と思うかもしれないが、ちょうど10年前にEヴォーグというのをやったらしく、それでまた、という流れだったようです。
(ちなみに10年前のEヴォーグでは、高城剛さんがおもしろいことを言っており、鼎談のときにはそれで盛り上がったのですが、それは雑誌に書いていあるのでそちらをどうぞ)

で、ちょうど校了のぎりぎり前くらいのときに、そらのーとの事件があって、密かにドキドキしていたのだが、それは月刊誌の宿命だし、まあ事件が起きたからと言って変わるようなことは書いてなかったので、ほっとしたりしつつも、そんなこともあって、この件の展開をネットで追っていた。

そもそも、長い間2ちゃんねるのあるデジタル社会は怖いところだと思っていて、なんとか自分を奮い立たせておっかなびっくりブログを始め、だんだん恐怖心を克服し、ようやく思っていたほど怖くないと楽しめるようになった臆病者なので、私にはそらのーとの事件が、「怖いネット」代表選手が、「意外と怖くなったネット」社会に殴りこみにきた、というようにみえた。

それはそれとして、鼎談のときには、ネットの匿名性という話に通じるような、日本人のウェブ上のアイデンティティの変貌の話題が出た。
かつてのデジタル社会では、ハンドルネームのもとに、リアルでの自分とは別の人格が生きられていた。
けれども徐々に実名化が進み、ツイッターの流行やミクシィの衰退につながっている。
その文脈の延長線上にそこにそらのーとの「ダダ漏れ」がある。
自分のナマのアイデンティティを、あまり加工しないで、ネットに流しているそらのさんに興味を持つ人が増え、「ダダ漏れ」が支持されたことは、田端さんの言葉でいうと、「デジタル社会の最先端は生々しいんですよ」ということになる。

そらのーとが「メディア」かどうか、という議論は、今回の騒ぎの周辺でもされていた。
編集権を放棄しているものをメディアと呼べるのか、ということである。
そういう意味では、メディアと呼べないのかもしれない。
ただ、「ダダ漏れ」の生々しさが支持された事実はそこに厳然とあるわけで、支持された文脈については覚えておくべきかなと思う。

そんなことに留意しつつ、10年後、デジタル世界のアイデンティティがどう変貌しているのかを考えると、ちょっとわくわくするのである。

2011年4月5日火曜日

東京滞在記

5日間といういつもより短い日程で東京に帰ってきました。
いいタイミングでいくつかのお仕事でお声をおかけいただいて、今なら帰れるかも、と数日前に決定し、慌ただしく出発した。
あとで気がついたのだが、震災を経て、やっぱり家族や友達の顔を見たかったのだと思う。

今回は、茂木健一郎氏、Save Japanのムラカミカイエ氏、Civic Forceの大西健丞氏氏、Just Giving の湯本優氏にインタビューさせていただいた。
海外に住んでいるのに、こういうタイミングで震災についてのインタビューにお声をおかけいただけるとはありがたいことである。

いつもよりちょっぴり暗い成田空港に到着し、その日の夜の打ち合わせを終えて、11時頃、いっぱい飲もうかとしたときに、いつも連れてってもらう深夜営業のお店が終わっていた。そして、あ、そういうことかと実感した。
でも翌日は、ご飯を食べようと思ったら、3軒続けて満席でまさかのディナー難民になりかけたし、金曜日に行ったairは驚くほど混んでいた。

airに行ったのは、☆タカハシタクさんのイベントがあったからだ。
タクさんがいて、自分のまわりに大切な友達がいて、わっさわっさと人がいるのを見て、一瞬急にセンチメンタルな気分になってしまった。
お祭りが中止になったとか、花見は自粛とか、そんな話をよく耳にする。
花見自粛の記事のなかで「被災地の人が辛い思いをしているときに楽しい思いをするのはどうも」というコメントを見た。
でも花見にしても、夜遊びにしても、別に単に「酒を飲んで遊ぶ」というだけじゃない。
友達の顔を見て、一緒にお酒を飲んで、不安な気持ちを共有したり、慰めあったり、安心したりするんだよ、とショットしながらセンチメンタルな気持ちで考えたのだった。
祭りの本質は遊びじゃないのだ。
都知事にしても、風営法にしがみつく人たちにしても、そのへんわかってないよなと思う。

夜の町は確かに節電でいつもよりちょっとだけ寂しく見えたけれど、クラブの人混みを見て、それから次の日の伊勢丹の込み具合を見て、東京は、少なくとも表面的には「日常」を取り戻しつつあるようにみえた。
でもなんとなく、遊びに行っていることとか、飲んでいることとか、言っちゃいけないような雰囲気があると思うのは気のせいか。
ツイッターをみていていも、飲んだ、食べた、遊びにいった、という話題は震災後減ったまま増えていないよね。

今回つくづく考えたこと。
日本人は忍耐強い。良くも悪くも。
今回いろんな人と会って、何人もの人が「被災したわけじゃないから」というのに気がついた。
確かに被災したわけじゃない。
しかし、大地震が起きて、日々余震に悩まされつつ、間引き運転の電車で仕事に通い、政府と東電はなんだがグタグタ感満載で、毎日テレビをつけるたびに原発の問題が前日と変わらない、またはさらに悪化している、という非日常を生きていてストレスがたまらないわけがない。
でも、被災したわけじゃない自分が、「日常」を生きることに罪悪感があるのである。

被災地のことはもとより、経済的な二次被害も深刻なことになりそうだ。
飲食にしても、アパレルにしても、3月の売上は大変だっただろう。
東北の工場が被災したことも、いろんな方面で影響が出ているらしい。
きっと他にもまだ目に見えない影響はあるんだろう。
引き続き、国内外からの義援金が集まり続けている。
でも海外での報道がすでに減り始めている今、義援金流入は減速するだろうし、復興にかかる費用を考えると、まだまだ足りないことは明らかである。
ということを、考えたり、会う人と話したりするうちに、自分のメンタリティがシフトした気がする。 
これまで自分は海外で起きていることを日本に紹介する人間として生きてきたわけだが、これからは日本のクリエイティブを海外に紹介することをもっと考えていこうって。
観光業は大打撃を受けているし、おまけに円高。
ずっと、日本の文化芸術の売り方は、まだまだ改善の余地があるなと他人ごととして思ってきたけれど、自分にも何かできるかもしれない。
というわけで、いろいろ考えています。