2011年10月22日土曜日

ワンガリ・マータイさんの訃報を聞いて

もう1ヶ月近く経ってしまったけれど、9月にサンフランシスコを旅しているときに、ワンガリ・マータイさんの訃報を聞いた。

マータイさんのことは、2006年にインタビューさせてもらったことがある。
記憶もちょっとあいまいなのだが、「へこたれない」のブックツアーをやっていたマータイさんを、ワシントンでつかまえたような記憶がある。



「もったいない」というフレーズが好きな環境運動家、というイメージで親しんでいる人が多いと思うけれど、この本を読むと、壮絶な戦いを生きてきた人なのだということが良くわかる(ご本人はおおらかで優しい人だったけど)。

というわけで、訃報をきっかけに、2006年のインタビューの原稿を引っ張り出してみた。
マリー・クレール日本版2007年1月号に掲載されたインタビューなのですが、エディターさんから許可をいただいたので、タンブラーのほうに全文ポストしました。
(マータイさんの活動については、充実したまとめを発見しました)

そのとき、環境に対する取り組みは進歩しているのでしょうか?
という質問を投げた。
それに対しては、Yes ともNoとも受け取れそうな長い答えが返ってきた。

そのあと、もっと直接的に
Are you hopeful?
と聞いたら、力強い
Yes!
が返ってきた。
私たちは、前進できているのだろうか?

2011年10月20日木曜日

ルーシー・ウォーカーさんの「津波そして桜」

先日、時計のブランドのシャリオールのクリエイティブ・ディレクターであるコラリー・シャリオールさんからメールがきた。
彼女は、ご主人のデニスさんと、社会的なテーマを取り上げるドキュメンタリーを上映して、そこからチャリティ活動につなげるというReact To Film(サイトもあるのだが、フェイスブックページのほうがよく更新されているようです)という非営利団体を主催している。
今回は、ルーシー・ウォーカーさんが撮った"The Tsunami and the Cherry Blossom" という作品のご案内がきた。

正直、ご案内を受け取ったときは、タイトルとフライヤーを見たときは不安になった。
チージーなものも、泣かせるものも苦手だからだ。
でも、ルーシー・ウォーカーさんといえば、Countdown to zeroとかWaste Landのように社会派作品が多いので、どんな作品になっているのか出かけてみた。

実際、作品は、被災地の人たちの姿を、日本人にとって桜がどういう存在か、というサブテーマを重ねつつ描いたものだった。
放射能の話も、東電の話もちらりと出てくるけれど、主役は人だった。
やっぱり泣いてしまったけれど、私は出かけてよかったと心から思った。

聞いたら、ウォーカーさんはもともと桜が大好きで、桜をテーマにした短編を撮ろうと思っていたという。
ところが震災が起きた。
それで一度は諦めかけたものの、やっぱり震災と桜を絡めた作品にしようと思ったのだという。

今、アカデミー賞のショートリストまで残っている(ノミネーションの一歩手前)という作品の上映会、私が出かけた会は、お客さんのほとんどが非日本人だった。
みんな津波のシーンに息をのんだり、避難所の人々の映像に涙を流したりしている。

5月にチャリティのフリマをやってから、これからどうやって何をすればいいかということを悩みながら、非営利団体申請の手続きにえらく時間がかかってしまっていることなどもあり、あまり具体的に行動を起こせずにきた。
日本についてのカバレッジが減った今、そして、ほかにも援助が必要な国がやまほどあるなか、日本を助けてくださいとお願いし続けるべきなのか、どうお願いするべきなのか、ということについて考えてきた。
そんなときに見たこの作品である。
日本人が言いあぐねていることを、かわりに言ってもらったような気持ちになった。

React to Film のお二人は、College Action Network
というネットワークを使って、これからこの作品を全米の大学で上映しようとしている。
「具体的にお金を集めることもそうだけど、まだ日本が大変なんだということを伝える努力をしていく」と、主催者のデニス・ポールさんが言っていた。

2011年10月2日日曜日

トロイ・デイビスともう一人の死刑囚

9月21日に、ジョージア州でトロイ・デイビスの死刑が執行された。
ヨーロッパ各国やローマ法王、カーター大統領やアムネスティ・インターナショナルや多くのセレブなど、いろんな方面から反対の声があがっていたこともあって、かなり注目度は高かったので、ご存知の人も多いと思う。
いろんなメディアがいろんな記事を書いていたけれど、バニティ・フェアが掲載していたトロイ・デイビスの写真には本当に涙がでた。

一応、知らない人のために書いておくと、トロイ・デイビスというのは、1989年にジョージア州のサバナという街で白人の男性警官を射殺した疑いで逮捕され、無実を訴え続けた黒人の男性である。
そもそもデイビスが犯人だということを裏付ける物証がないうえに、デイビスが有罪判決を受けた裁判で証言した目撃者の9人のうち7人が、証言の内容を撤回したり、変えたりしているうえ、かなり高い確立で真犯人だと思われる人物がいたりして、有罪判決の正当性自体を疑問視する声も多かった。
死刑はこれまで何度も延期されてきたし、再審を請求したり、減刑を嘆願するなどして、死刑を行わせない道を探ったみたいだけれど、結局デイビスは死刑にされてしまったわけです。

実は、デイビスの死刑が執行された同じ日に、テキサス州で別の死刑囚が執行されていた。
死刑になったのはローレンス・ラッセル・ブルーワー。
1998年に黒人の男性に、仲間の男性二人とともにリンチを加えて殺害した罪で死刑判決を受けた白人至上主義者である。
被害者の名前はジェームス・バードさん。
家まで送ってあげるふりをしてバードさんを車に乗せ誘拐し、殴る蹴るの暴行を加え、小便をひっかけたりやりたい放題やった挙句、バードさんの足首を車の後部にくくりつけ、3マイルも走ったうえに、ひきずられる間にあちこちにぶつかって体の部位が切断されたバードさんの遺体を捨てた、という事件である。
このあまりに凄惨な事件は当時大騒ぎになり、マシュー・シェパードくんの殺害事件とともに、ヘイトクライム法の制定のきっかけとなった。
(といっても、日本ではあんまり大きなニュースじゃなかったかもしれない)

ブルーワーも、21日に処刑された。
直前のインタビューで
As far as any regrets, no, I have no regrets.
I’d do it all over again, to tell you the truth.
という言葉を残して。

まだある。
テキサス州には、死刑囚が自分の「最後の食事」を選べるという伝統があったのだが、ブルーワーは
「チキン・フライド・ステーキ2切れとグレービー、玉ねぎのスライス、トリプル・ミート・ベーコン・チーズバーガー、ひき肉とトマト、玉ねぎ、ベル・ペッパーとハラペーニョのオムレツ、フライド・オクラとケチャップ、バーベキュー肉1ポンドとパン半斤、ファヒータ3切れ、ピザ、ブルー・ベル・アイスクリーム1パイント、厚切りのピーナッツバター・ファッジにつぶしたピーナッツをかけたもの、ルートビア3本」
という夕食をオーダーし、一口もつけることなく死刑台にのぼっていった。
そして、これを聞いて怒ったテキサス州上院議員のリクエストにより、テキサスの死刑囚は最後に好きなものを食べられるという80年以上続いた伝統は、あっさりと廃止されてしまった。

どこまでヒドいの、というくらいのjack assである。
死刑に使われる薬物注射を仲間への手紙のなかで「睡眠薬くらいのもんだ」と呼んだというブルーワーはこうやって、自分を罰しようとする社会に思い切り中指を立てて、死んでいったわけです。
ティモシー・マクベイのケースを思い出した。
こういう人間の前では、「死刑は究極の罰である」という考え方はまったく意味をなさないことになる。

ちなみにバードさんの遺族は、 Murder Victims' Families for Reconciliation(日本語では和解のための殺人事件被害者遺族の会と訳されることが多いようです)に参加していて、ブルーワーの死刑にも反対を表明してきた。
テレビに出ていたバードさんのお姉さん(妹さんかもしれない)は、ブルーワーのことを「裁判のときからずっと許してきた」と言っていた。
それでも、この週、死刑関連のニュースで主役だったのはトロイ・デイビスだった。
ブルーワーの死刑についてのカバレッジは、トロイ・デイビスのそれに比べてずっと少なかった。
メーリングリストなどに登録しているさまざまな人権団体からは、トロイ・デイビスについてのメールはたくさんきたけれど、ブルーワーやバードさんの遺族についてのメールは一通もこなかった。
理由はわかる。
ブルーワーのケースは、死刑廃止運動という観点からいうと材料として弱いし、こいつのことを話題にするだけで本人のおもうつぼに陥る気もする。
でも、なんかそこに現行の死刑廃止運動の限界を感じたのでした。

私が死刑に反対な理由はシステム上の欠陥や公平性の欠如によるところが多いし、どうしようもないモンスターを「許してあげましょう」思える境地にはほど遠い。
が、家族の一員が白人至上主義者の手によって凄惨なリンチをうけたうえに殺された、そんなことを経験したうえで、「許した」という境地に至ったバードさんの遺族の言っていることこそ、耳を傾けるべきなのではないか。
9月のある日の夜、被害者の遺族の意志とはまったく関係ないところで、「合法な」手続きを踏んで行われた処刑2件をみて、そんなことを考えていたのでした。