2011年5月30日月曜日

初めてのチャリティでやりたかったこと〜RagTag charity sale報告

昨日、RagTag by Tao Okamoto and Fashion Friends for Save Japan!が無事に終了しました。
震災が起きて、ニューヨークの仲間で何ができるかを話し合い始めたのが、2ヶ月くらい前。
モデルのタオちゃんからのアイディアで、モデルさんたちの私物でフリーマーケットをやれないかと準備を始めたのが1ヶ月半ほど前でした。
たった5人の小さなチームで始めたことに、いろんな人が助けを貸してくれ、モデル、スタイリスト、エディター、デザイナーたち70人から集まったものの数は700点以上。
予想以上のモノが集まったので、前日の値付けが終わったのは深夜1時すぎ。
当日も10人以上のボランティアが、汗だくになって働いてくれました。

タオちゃんがブログにも書いてくれたとおり、予想以上のハードワークに何度もくじけそうになったし、モノが足りないんじゃないか、誰もこないんじゃないかと、終わるまでハラハラドキドキの展開。
個人的には、木曜日の集荷の最中に、車を消防車にぶつけられたりのエピソードもあったりして(おかげで、ハンサムな消防士さんたちに囲まれて素敵なブレイクとなったけど)。
でも会場を貸してくれたSaturday Surf NYCや、Models.com、Style.comなどでも告知してくれたおかげで、連休中だというのに、会場の温度が上がって汗だくになるほどたくさんの人がきてくれました。

参加メンバーのなかでも、それぞれいろんな思いがあったと思うのだけれど、個人的な気持ちでいうと、
1,参加者や協力者の負担はなるべく小さく
2,来てくれるお客さんのこともベネフィットできる
3,かつ震災でまだまだ支援が足りないということを、こっちの人たちにも思い出してもらいたいということをずっと考えていました。
というのも、やっぱりこちらの報道をみていると、日本の震災のことは減る一方。
震災直後こそ、たくさんのチャリティがあったけれど、いくらニューヨーカーがチャリティ好きといっても、支援して!というのもだんだん申し訳なくなってくる。
でも、被災地はまだ大変なんだよ、というメッセージを発信し続けることが大切だと思ったのです。

ヒントになったのは、前にも書いたビヨーク主催のハイチのためのベネフィットショー。
ハイチで地震が起きたのは2010年1月。
ショーがあったのは5月。
けっこう時間が経ってるなと思いながら出かけて、参加者も楽しければこれだけの人がきてくれるんだと思ったことが小さなヒントに。

なるべくたくさんの物を買ってもらえるように、値段は低めに設定しました。
たとえばロダルテのドレスは200ドル台、新品同様のミュウミュウのバッグは300ドル、というように。
来てくれた人、ボランティアしてくれた人たちに「楽しかった」と言ってもらえたのはほんとにうれしかった。
もちろん反省すべきところ、振り返ってもうちょっとうまく仕切れたかなと思った点もたくさんありました。
また次もやってねという声も聞こえてきたのだけれど、今後どういう形で何ができるか、これからみんなでまた考えたいと思います。

ちなみにこれはあくまでも
写真、ビデオ、公式なレポートは、これとは別途Save Japan! のサイトにアップします。
助けてくれたみなさん、きてくれたみなさん、取材してくれたみなさん、本当にありがとう。

2011年5月17日火曜日

「チャイナ・シンドローム」とアメリカの原発世論

週末、ペンシルバニア州のスリーマイル・アイランド周辺の地域に取材に行ってきました。
今回は週刊朝日のお手伝いとして行ったので、詳しい取材の内容は差し控えますが、帰ってきてから現地で何度か話題に出た「チャイナ・シンドローム」を見た。



この映画が公開されたのが1979年3月16日。
スリーマイル・アイランドの事故が起きたのが3月28日。
ものすごいタイミングで事故が起きたために、予想以上にヒットしちゃって、アカデミー賞で多数のノミネーションを受けたといういわくつきの作品である。

女性リポーター(ジェーン・フォンダ)が、原子力発電所に取材に行き、たまたま緊迫した場面に居合わせる。
撮影したテープを放映しようとするが、上司を通じて電力会社からの圧力がかかり放映できない。
怒ったカメラマン(マイケル・ダグラス)がテープを盗み、彼女がその状況に対処しようとするうちに、発電所の危険を知ってしまう・・・という話である。

この映画が公開されたあとに、実際に初の原発事故が起きたと思うと、ときどき世の中には奇妙なめぐりあわせが重なるもんだと思う。
が、結局、その後のアメリカの反原発運動は、一度はある程度の盛り上がりを見せたものの、その後、沈静化して、局地的な感じに収束してしまい、(間をかなり乱暴に省略すると)今にいたったということはみなさんご存知の通りです。

で、映画を見て感じたこと。
まずひとつには、映画での原発の描かれ方がハリウッド流でやっぱりリアルじゃないということである。
当時はアカデミー賞の美術部門にノミネートされたらしいんだが、今みるとセットが妙にちゃちい(これは30年前のセットだからしょうがないともいえる)。
そして事故が起きそうになったときの様子なんかも、妙に過剰にドラマチックで、現実感にいまひとつ欠ける。
あまり知識のない人がみたら「原発けしからん」となるかもしれないが、ある程度、知識のある人だったら、?と思うのではないかというシーンが多々ある。

それから、原発反対派の若者たちが、公聴会に参加して、反対を表明するシーンがある。
もちろん反対の理由などを説明するのだけれど、政治運動としては効果が低そうなパフォーマンスをするのです。
当時の反原発運動は、反戦、反核の運動と強く結びついて行われたことが垣間見える。
そして、当時リベラルのシンボル的存在だったジェーン・フォンダが出ていることやストーリー展開から、この映画の作り手が反原発のリベラルな思想の持ち主だと推測すると、運動家たちがラディカルで現実感のないキャラクターに見えてしまうのは皮肉なことだ。

福島のことが起きるまでは、私のこの国の原発世論については新聞などでたまに読む程度で、実際、あまり知らなかった。
最近の空気感については、冷泉彰彦さんがニューズウィークのコラムに書いていて、参考になります。

スリーマイルの事故が起きた当時のことを覚えている世代と話をすると、気がつくことがひとつある。
それは、アメリカにおいて原発を受け入れてきたコミュニティや原発支持派が優勢なコミュニティは、だいたい保守的な農村部だということだ。
しかも1970年代前半には第四次中東戦争をきっかけにOAPECが禁輸措置をとるようになり、エネルギー依存からの脱却が叫ばれていたために、原子力発電は「愛国的」だと喧伝されていた。
保守派の優勢な地域で、原発が受け入れらた裏には、こういう時代背景があった。
そして、反核、反戦運動と結びついた反原発運動に対する反感があったことは容易に想像できる。

この2年弱、GQ Japanで「アメリカ自家中毒」というタイトルのコラムを書かせていただいてきた(次号から別の連載になります)。
毎号、何かをテーマに、右派と左派が喧々諤々やりあう様子をレポートしてきたのだが、左派が言っていることと、右派が言ってることの乖離があまりに激しくて、よくひとつの国として成立しているもんだと思いながら書いてきた。
そして、「チャイナ・シンドローム」を見て、それは70年代も、今も、ほとんど変わらない現実なんだと気がついた。

2008年の選挙を控えた夏に、雑誌「コヨーテ」の企画で、市井のおじさんおばさんたちを取材しながら全米を旅したときにも、同じ感覚を覚えたことを思い出した。
田舎の暮らしの現実と、都会の人の現実はあまりにも違う。
ジェーン・フォンダやマイケル・ムーアのようなリベラル代表選手の主張が、こういう場所の人たちの耳に入らない理由がよくわかるのです。
多くの問題について、私は左派の考え方にシンパシーを覚えることが多いけれど、方法論として、理想主義的すぎたり、ナイーブだったり、急進的すぎたりすると、実際の変革に結びつくのは難しい。
当事者不在で議論が進んでしまうからだ。
ということを、スリーマイル周辺の地域を訪ねてみてあらためて実感した。

今、日本のエネルギー政策が岐路に立たされているとしたら、当事者不在で話が進まないことを祈る。
福島の人たちだけでなくて、日本中の原子力発電所と共存している人たちも。
そして、日本が今置かれている状況を、世界にきちんと発信してほしいと思う。
今日本で起きていることは、ドイツなどをのぞいたら、世界の原発世論の大きな流れを変えるには至っていない。
でも、好む好まざるにかかわらず、世界のエネルギー政策の今後を左右する、重要なリファレンス・ポイントになる可能性があるのだ。
スリーマイル島周辺地域を訪ねて、「チャイナ・シンドローム」を見て、そんなことを考えた。