2012年11月14日水曜日

PERISCOPE日本語化とハリケーン・サンディのこと。

ご無沙汰しました。
10月の後半は、4年ぶりのアメリカ大統領選挙前アメリカ一周ツアーに出ていました。その模様は、Tumblr を使ってPERISCOPEのウェブでリアルタイムにアップしました。
そしたらアメリカ大使館主催のニコ生番組からお声をおかけいただき、初めてニコ生の番組に出ました。そしてせっかくなので、このタイミングに間に合わせようと、PERISCOPEの日本語版を作りました。
と、なんだか子供の作文みたいになっていますが、アメリカ一周の旅に出ていたら、ハリケーン・サンディがやってきて、ちょうどニューヨークに戻るタイミングがサンディと同じになってしまうという妙なことになったわけです。
川に近いので避難地域に入っていた我が家ですが、実際には被害の大きかったエリアのみなさんに申し訳なく思えるほど影響はなくて、旅にでている間にためこんだ締切に立ち向かうべく、そしてPERISCOPEの日本語化の作業をするために、そのまま電車が泊まっている間も、ずっと毎日家で作業をしていたわけですが、その間に、ダウンタウンは洪水やら停電やらでとても大変なことになっていました。

ダウンタウンの電気は徐々に復旧し、1週間近く止まっていた地下鉄もほぼ普段どおりになったけれど、一番被害の大きかったエリアはいまだに大変な状態が続いていて、ようやく週末時間ができたのでロッカウェイズにボランティアに行ってきました。

車を持っている私は、物資を届けたり、糖尿病の患者さんに必要なモニターシステムをとりにいって、ドロップするというような役割をあてがわれたので、ロッカウェイズの周辺を車でうろうろする機会に恵まれたわけですが、今も電気が通っていないなか、住民やボランティアがれきの整理をしていたり、動かない信号のそばで、警官が交通整理をしたり、戦車がうろうろしていたり、どれだけ大変なことが起きて、いまだに住民の人たちがどんどん下がる気温と戦いながら、日常に戻るのに苦労をしている様子がよくわかりました。

今回特に被害が大きかったのは、ニュージャージー州の一部の地域や、ニューヨークでいうと、ロッカウェイズというビーチ沿いのエリア、スタテンアイラン ド、レッドフックというブルックリンのウェアハウスが立ち並ぶ、最近ヒップになってきたエリアなど。日本のみなさんが「ニューヨーク」 という言葉を聞くときに、思い出すエリアではないかもしれないけれど、ニューヨークに暮らしていると、どこも馴染みの深いエリアばかり。私が行ったロカウェイズは、地下鉄でいけるビーチとして、ニューヨークのサーフィン・カルチャーの中心地で、私も夏になるとたまに遊びに行った地域。この夏、ポパイのニューヨーク特集を作ったときに、いろんな人の口からおすすめの場所として出たところでもあります。私も夏になると(たまにだけど)遊びにいったロッカウェイズのボードウォークは、影も形もなくなっていて、これからもとの姿に戻るのに、どれだけの月日がかかるのだろうと思ったら、それはそれは悲しい気持ちになったわけです。

ロッカウェイズには、ビーチもあるけれど、プロジェクトと呼ばれる低所得者のための公共住宅が立ち並ぶ貧しいエリアもかなり広範囲であって、そのあたりでは、水や食料を受け取ろうとする住民が、教会や学校といった救援物資の配給所に長い列を作っている姿が見えました。 こういうとき、ニューヨークのような場所では、貧しいエリアが後回しにされる傾向があるのですが、ただでさえ大きいハリケーンの被害に、その傾向が加わって、とても切ないことになっているわけです。

ニューヨークの暮らしは、ほぼ普段通りに戻っているようで、今回のハリケーンの被害はまだまだ払い去られてはいません。まだオフィスに入れずに、自宅から仕事をしている人がずいぶんいるし、長年住んできたアパートが、安全でないと判断されて、立ち退きを迫られている人もいます。多くのギャラリーで多数の作品が損傷を被ったと聞くし、zineとアートブックの専門店Printed Matterでは、大量のアーカイブが失われたと聞きます。恐るべし、サンディ。

今回、私が家で仕事にかかりっきりになっている間に、アーティストやオフィスに出かけられなくなった友人たちが、草の根の組織を立ち上げて、毎日のように被災地に出かけている姿には強い刺激を受けました。特に日本でもちょっと前に個展をやったiO Tillett Wrightが立ち上げた団体は、電気の通わない地域に食料を届けたり、懐中電灯や衣類を集めたり、これからは、自家用発電機などを購入するための資金を集めるそうです。先日やったベネフィット・ライブには、羽鳥美保さんのNew Optimismやデヴェンドラ・ヴァンハートなんかも参加していて、そのときの彼女のスピーチで、「カトリーナがニューヨークの裏庭で起きた」という言葉が印象に残っています。規模はともかく、いまだに家に帰れなかったり、電気や暖房のないところで暮らしている人がいるという事実だけでもカトリーナと重なる部分があるのです。

と、なんだかものすごく長くなってしまったけれど、日本にはその深刻さがいまひとつ伝わってないのでは?という声を何度か聞いたのと、某ファッション系のニュース・サイトで、邸宅をいくつも持ってるデザイナーが「家に帰れない」といって怒っているという記事が出ていたのをみてちょっとなんだかな、という気持ちになったので、このブログを書きました。でもね、私もロカウェイズに行くまで現実の深刻さはわからなかった。ニュースで見えることなんて、ほんのちょっとなんですよね。
 

2012年10月12日金曜日

アメリカ一周の旅に出てきます。

2008年9月、雑誌コヨーテの企画で、フォトグラファーのグレイス・ヴィラミルと、ニューヨークを出発し、北回りで西海岸まで行き、そこからカリフォルニアを南下して、南回りで東海岸に戻るという旅を敢行しました。ロバート・フランクの「Americans」の50周年のトリビュートという意味もありましたが、アメリカは史上初の黒人大統領が誕生するかどうかを決める選挙に向けた戦いのさなかにありました。コヨーテでの企画は、ニューヨークで生きているかぎりはなかなか出会うことのできない内陸のアメリカ人たちに出会い、話をし、ポートレートを撮らせてもらいながら旅をする、という趣旨のものでした。アジア人女性である自分たちが、アメリカの知らない土地に乗り込んでいくことに一抹の不安はありましたが、行く先々で出会ったアメリカ人は、想像していた以上にオープンで、ときにはあまりの善意や親切に戸惑うことすらありました。1ヶ月の間、私たちは多くのアメリカ人に出会い、キャンプ場やモーテルに宿泊しながら、カウボーイと朝食を食べたり、知らない人の家に招かれたり、要塞の跡地を宿にしたり、ネイティブ・アメリカン居留区を訪ねたり、農薬散布用のセスナにの乗せてもらったり、大麻農場を見学したり、たくさんのユニークな経験をしました(前回の写真の一部はこちら)。あれから4年、オバマ大統領の任期の終盤を迎えて、アメリカ人たちは何を考えて暮らしているのか、出会った人たちが今どうしているのか、選挙直前のアメリカを再び旅することにしました。出発は10月14日、18日間にわたる旅になる予定です。旅の経過と出会った人々のポートレートはPERISCOPEのウェブサイトで、リアルタイムにアップデートしていく予定です。乞うご期待。

2012年9月26日水曜日

初めてプロレスに行ってきた

PERISCOPEがオープンしたよ、というお知らせのエントリーのあと、5ヶ月もブログを放置してしまいました。 ポパイのNY特集、フィガロのNY特集、そして文藝春秋の仕事でヒューストンのMDアンダーソンに行ったり、MITのメディア・ラボの伊藤穣一さんの密着取材に行ったりしているうちに夏が終わってしまった。

それはそうと、先日、初めてプロレスというものに行ってきた。 ニューヨークをベースに活動しているPeelanderZという日本人のバンドがあって、そこのイエローというお兄さんがいる。
(PeelanderZは、特にテキサスあたりでびっくりするような人気を誇っていて、先日もヒューストン出張中にひとりで音楽を聞きにでかけたら、バーに座っていた人が「PeelanderZがさあ」と話していたのをきっかけに知らない人と音楽の話で盛り上がった、というようなことがあった)

 そのイエロー兄さんが、アメリカの小さなプロレス団体が主催するイベントに巡業している日本人のプロレスラーがけっこういる、という話をしてくれたことがある。 アメリカのプロレスといえば、WWEが圧倒的な力を誇っているわけだが、ほかにも小さいリーグがあって、そこには映画「レスラー」を実地でいくようなドラマがごろごろ転がっている、という話だった。 それで、いつか連れていってやると言ってくれていたのが、ついに実現したのである。

 行った先はフィラデルフィア郊外のイートンという街。 高速脇の体育館のような場所である。チカラ・プロ(どうやらオーナーが日本のプロレスのファンらしい)というところが主催するイベントである。
ちょっぴり遅れて会場に入ると、すでに歓声のボリュームは最大限で、大変な盛り上がりようである。 そして見渡すかぎり白人ばかり。
それも、なんというか、NYではなかなかお目にかからないタイプの白人、うーん、体が大きい肉体系のみなさんが多いような印象である。
こういうみなさんを見ると、えっとこちらはアジア人ですけど、大丈夫ですか?と思ってしまうことがよくある。 差別まではいかないまでも、非白人慣れしてないがために、じろじろ見られたりするんじゃないかしらと構えてしまうのである。
しかし、3人対3人のマッチが8回あって、登場した日本人レスラーの数は10人くらい。
女性のレスラーもけっこう多くて、白人のファンたちが、彼女たちの名前を叫んだりしている。 私の後ろの席では、若い白人の男の子が「おれ、彼女のDVD持ってるぜ」なんて友達に自慢してたりして。 休憩時間になると、リングを降りたレスラーたちが、グッズを売ったり、サインをねだられたり、ファンと話したりしている。 こんな白人ばかりの地域で、こんなローカルレベルの国際交流が起きているのを見たら、なんだかとても温かい気持ちになった。
写真はコミカルな動きで会場をわかせていた日本人のレスラーのお兄さんたち。

 これまでプロレスというものに興味をもったことはほとんどなかった。 素人考えながら、なんか筋書きが決まっている印象を受けていて、だからかもしれない。
最近、スポーツというものにげんなりすることが増えていた。 ドーピング疑惑について読むたびに、もちろん個々の選手の責任もあるだろうけれど、資本主義のものすごく極端な側面をみるような気がして、それがスポーツ本来の美しさを汚しているような気がしてすっかり萎えてしまったのである。
そんなときに体験した初めてのプロレスはとても新鮮であった。 アメリカ人の巨大な男性レスラーたちと、私よりも小さいくらいの日本人の女子レスラーたちが対戦したりしている。 厳密な意味での「試合」では、もちろん、ない。
でもそのぶん鍛えぬかれた肉体をふんだんに使ったエンターテイメントとして、余計なことを考えずに楽しむことができるのかもしれない。
行くまでは、何時間もプロレスなんて退屈しないかなと思っていたけど、約5時間、心底楽しい体験をさせていただいた。

ちなみにイエロー兄さんは、ここでも若い白人の男子たちに「一緒に写真撮ってください」なんてねだられてすっかり人気者であった。 イエローさん、まだまだ自分の知らない世界がある、と思い出させてくれた貴重な夜をありがとう。

2012年4月20日金曜日

PERISCOPE ローンチにあたって

つくづくブログには向いていないと思う今日この頃。
トッド・セルビーが協力してくれたCASA BRUTUS のこととか、ナバホ居留区のラグで有名な村落に行ったときの話とか、L'Arc en CielのMSGのライブに行って、日本をどう売るべきかということについて思ったこととか、書きたいと思っていたことはいっぱいあったのだが、気がついたら機を逸した感じになっておりました。

が、今日、久々に書いているのは、ここしばらくずっと準備をしてきたiPad/ウェブマガジン、Periscopeがついにオープンしたからです。




ひらたくいうと、ヒトのマガジンである。
私は、有名なクリエーターとかデザイナーとかそういうたぐいの人に取材をするのも大好きだけれど、まったく無名な人に取材をするのも好きだし、相手が変な人であればあるほど盛り上がる。
モノを作る人だったら、その人がどういうことを感じ、考えて作品にしているのかとか、なんでこの人は写真をこういうふうに撮るんだろうか、とか、普通の人だったら、どういうアイデンティティからその政治思想にたどりついたのだろうかとか、そういうことを知ることにちょっとオブセッシブといってもいいくらいの興味をもっている。

今年は私がフリーのライターになって10年目である。
初期の頃はこなすだけで精一杯だったけれど、だんだん時間が経って、自分のライターとしての力量の限界のようなものを感じるようになってきた。
特に取材相手がすっごくおかしな人だったりすると、このおかしさを自分の稚拙な文章力では伝えられない!とはがゆく思ったりして、何か別の伝え方がないかと思うようになってきた。
その一方で、ビデオでできることが増えて、デジタルで雑誌をやるということが現実的なものになってきた。
そんなわけで、iPadが発売になった頃から、ちょうど同じ頃、同じことを考えていた仲間たちとブレストをはじめて、今形になったのがこのマガジンである。

ここまでくるのは、本当に長い道のりであった。
たくさんの人の力を借りて、ここまでこぎつけた。
手伝ってくださったみなさん、本当にありがとう。

そしてオープンした今、まだまだコンテンツは足りないし、微調整しないといけないことはあると思うけれど、なかなか強烈なメンツでスタートできたような気がする。
始めたからには、続けていくつもりなので、ここで満足している場合ではまったくない。これまで以上にがんばらないといけないと思っています。

そして、今回のデザインを実現してくれたのは、ムラカミカイエ氏以下、SIMONEのみなさんであった。
ムラカミカイエ氏は、今、時代に求められてとても忙しくしているのに、私の妄想を受け入れ、かついつも冷静で鋭い意見を惜しみなく与えてくれつつ、ここまで忍耐強くお付き合いいただいた(そして今後もお付き合いいただけるのだろうと信じている)。
この場を借りて心からお礼を言いたいと思います。

もうひとついうと、今日4月20日は、リビアで亡くなったティム・ヘザリントンという写真家の命日である。
前にも書いたけれど、ティムは、何も見せるものがない状態で話だけ聞いて登場をオーケーしてくれた人である。
そんなこともあって、なんとしても今日という日に間に合わせたかったという気持ちもあった。

Periscopeはまだ試運転を始めたばかりだし、とりあえずは英語だけのスタートである。それでもいいよ、という方には、ソーシャル・ネットワークにもぜひ協力していただければと思います。
Facebook:https://www.facebook.com/wearetheperiscope
Twitter:twitter.com/weRthePERISCOPE
Google+: we are the PERISCOPE

2012年3月17日土曜日

Save Japan of America サイト、立ち上げました。

またもやブログから遠ざかってしまいました。

今日は、お知らせです。
去年の5月、NYの友達有志で、ファッション業界の人々から寄付を募り、フリーマーケットをやりました(それについてのブログ)。
それ以来、これといって活動できなかったのが、ずっとどこかで心に引っかかっていました。
同じ有志のグループで、1年後、何ができるだろうと話しあい、考えたのが英語圏の人たちに、まだ参加できるチャリティの商品とか、日本についてのドキュメンタリーとかを紹介するTUMBLRサイトを作るということでした。
まずひとつには、いろんなところでいろんな活動が行われていて、でもそれをまとめて見れるような場所がない。
そして、1周年の3月11日には、海外メディアでももちろん取り上げられていたけれど、今後は当然ながらさらに減っていくだろうということで。
というわけで、TUMBLRサイト。
日本のSave Japanを立ち上げたSimoneさんが、デザインを提供してくれたことで実現しました。
まだまだコンテンツは足りません。
これから徐々にアップしていこうと思っています。
英語圏の人たちに知らせたいような情報があったら教えてください。
というわけで、サイト、こちらです

2012年2月3日金曜日

MOSS閉店とアンチ・ノスタルジア

先週、MOSSが閉店するとのニュースが届いた。

MOSSを知らない人のために解説すると、MOSSは無理やりくくるとデザインショップということになるが、その活動はデザインショップのそれを大きく超えていたし、アートとデザインの境界線を曖昧にした、いわばクロスオーバーの草の根だったと思う。
MOSSのウェブサイトは今のところ生きているようです。

いっときは、MOSSがイベントをやるたびに話題になったし、私も買うものがなくても時々訪れたい店だった。
最近は、その名前を耳にすることも少なくなっていたし、自分も足が遠のいていた。
閉店という知らせを聞いて、寂しいなと思ったけれど、NYのデザインシーンのひとつの時代が終わったのだなと妙に納得する気持ちもあった。

高いものばかり売っている嫌らしい店だというイメージを持っている人も多かったと思う。
でも実はそうでもなくて、オープンしたばかりの頃、タッパーウエアのマンハッタン用デザインを作って、郊外の主婦たちがタッパーウェアを売るのをパロってタッパーウェア・パーティを開催したこともある。
モダンというイメージを持つ人もいるかもしれないけれど、陶器メーカーのニュンフェンブルグとコラボして、NYタイムズに「モダニストの死」と書かれたこともある。

私は運良く、カーサ・ブルータスでNY特集をやった2007年に、マレイ・モス氏に長いインタビューをするチャンスに恵まれた。



閉店の知らせを受けて、インタビューをひっぱりだしてみた。
ちょうど、MOSSがミラノ・サローネに初めて出展した頃だった。そのことを聞いたときの答えがこうだった。
「スタジオ・ヨブに依頼してやかんやポットのスカルプチャーを作ってもらったんだ。アートを作る過程を踏んで。つまり僕が提起したかった問題は、これはアートか、プロダクトか、それとも両方か、ってことなんだ。僕が言いたかったのは、プロダクトだって見方によってはアートだということ。アートであるためにアートの過程を踏む必要ない、ってことを示すために、わざわざアートの過程を踏んだ。反応は賛否両論だったけど、何かを伝えようと思ったら、リスクを負わなきゃいけないんだよ」

私は、モスさんと会ってみて、とてもパンクな人だなあと思ったし、世の中を煙に巻いたり、なぞなぞを仕掛けるのが好きなんだろうなと思ったけれど、きっとMOSSで買い物する顧客の多くは、そのあたりはどうでもいい富裕層だったのだろうと想像する。

ちなみに、MOSSは閉店するけれど、モス氏とパートナーのフランクリン・ゲッチェル氏は、また新しいビジネスに乗り出すらしい。
Moss Bureauという名前で。

閉店のニュースを読んでいたら、モス氏のインタビューがあった。

そこにこんな一言があった。
The world changes. And also things get stale, and the dynamics change, as we know. There can’t be nostalgia.
ノスタルジアには興味がない、とあえて釘を指すところがやっぱり素敵である。

2012年1月27日金曜日

West Memphis Threeその後

最近、過去に書いたブログがずいぶん時間が経ってからアクセスされたり、ツイートされていたりすることが続いた。
ひとつは、ドキュメンタリストのルーシー・ウォーカーさんが撮った「津波そして桜」の話題。アカデミー賞のドキュメンタリー短編部門にノミネートされたということらしい。

そしてWest Memphis Threeの話題
こちらは調べてみたら、先日行われていたサンダンス映画祭で、ピーター・ジャクソンとフラン・ウォルシュがプロデュースしたドキュメンタリー映画「West Of Memphis」が公開されたということであった。
事件については、先のブログに書いたのでここでは割愛するが、予告編はこちらで見られる。


ロイターの記事によると、ピーター・ジャクソンは、HBOが以前に作った「パラダイス・ロスト」を見て、最初は金銭的な援助をしたりしていたが、2008年に再審請求が却下されたときに、映画を作ることを決めたのだという。
「パラダイス・ロスト」ができてからかなり時間が経っているので、「West Of Memphis」を見るのがとても楽しみである。
この記事にもはっきり書かれているが、この映画には、具体的な目的が隠されている。それは、これまで何度も犯人の可能性があると名前が囁かれてきた、被害者の少年の継父にあたるテリー・ホブス氏が犯人ではないかという疑問を追求することである。
West Memphis Threeの物語は、まだまだ先がありそうである。

2012年1月21日土曜日

R.I.P SOPA & PIPA(と願う)

昨日報じられたとおり、著作権保護のために米議会が成立を目指していたSOPA、PIPA法案は、採決が延期されることになった。

昨年、この法案の存在が浮上したとき、フェイスブックやメールで、「反対しよう」というメッセージがちょろちょろ来るようになったけれど、話題になっていたのもかなり限定的な感じだったので、どうせするっと通ってしまうんだろうと漠然と思ったのを覚えている。

シェアやフリーミアムの概念、それからソーシャルネットワークをうまく使っている企業と、そうでない企業のギャップはどんどん大きくなっているような気がするが、それはさておき現行の法律で「著作権侵害」とされている行為を処罰する法律を作りたい、というところはまあわかるとしても、SOPAとPIPAの最大の問題は、著作権を侵害するコンテンツを含むサイトを、取り締まる側が裁判所の判断などを仰がずにブロックすることができる、というポイントである。こういうことを許してしまうと、インターネットの検閲になりかねないと懸念するのは当たり前のことである。

この数週間、かなり抗議運動が活発になってからも、音楽業界がナプスターを潰そうとしたときを思い出してすっかりデジャブ気分で、シェアやフリーミアムといった概念がすっかりリアリティの一部になった今、またまた何を言っているんだろうとあほらしい感じを抱きつつ、でもSOPAとPIPAを支持する団体や会社のリストを見たら、反対していたグーグルやフェイスブックの力がいくら大きくなったとはいえ、さすがの大連合には負けてしまうのではないかとやきもきしていた。

18日のブラックアウトについても、たとえばウィキペディアが24時間サービスを停止したからといって、どれだけ効果があるんだろうかと思っていたのは私だけではないと思う。ツイッター社のCEOディック・コストロのように「バカバカしい」とはっきり表明しなかったとしても。
でもあの日、どういうわけかどこかのポイントで流れが変わった。
ウィキペディアに行って、自分の郵便番号を入力し、自分の地域の議員事務所のサイトやメールアドレスを手にいれて、抗議の意を表明した有権者たちのパワーは、いくつかの議員事務所のサイトをダウンさせるに至った。
そして、最終的には、採決延期に至ったわけです。
インターネット上の運動が政治の流れを変えた。これはなかなかにすごいことだ。

採決延期が発表になった直後、ツイッターやフェイスブックを見ていたら、droppedという言葉を使っていた人や媒体もいたけれど、そうではなくて、あくまでも延期、法案の内容を見直してもう一度チャレンジするということである。
だからまだ安心はできない。
しかも、アメリカでの流れが国際的な流れに及ぼす影響は大きいわけだから(特にエンターテイメント業界まわりでは)、日本にとっても他人ごとではない。

一連の流れを見ていて、つくづく思ったのは、リソースとエネルギーのムダだよなということである。
この間、日本で自炊業者を訴えた作家の先生方の記者会見を見ても思ったけれど、著作権の侵害がけしからん、と思うのはまだわかる。でも、それを全部取り締まるのは不可能なのです。
それよりネットでコンテンツが有機的に拡散していくことをうまく使って商売したほうがよっぽど効率がいいと思う。
この騒動の最中に、VICEがおもしろい記事を出していた。
法案を提案したラマー・スミス議員が、自らのキャンペーン・サイトでクリエイティブ・コモンズ扱いの写真を撮影者に無断で使っていた、というネタである。
それだけじゃない、法案を支持した議員のなかには他にも写真などを無断で使っていた例がいくつもあったということもわかった。
冗談みたいな話だが、まさに今の世の中のリアリティである。
ご本人たちが、この皮肉をわかっているかどうかは謎だけれども、この現実を受け入れて、SOPAとPIPAはこのまま闇に葬り去ってほしいものである。

2012年1月17日火曜日

「不死細胞ヒーラ ヘンリエッタ・ラックスの永遠(とわ)なる人生」を読んで

半年くらい前だっただろうか。
出張でノースキャロライナのたぶんシャーロットだったと思うのだが、空港で2時間くらい時間があいてしまったことがあった。
西洋のご飯にすっかり飽き飽きしていたのでお寿司のカウンター(といっても西洋風なんだけど)に座ったところ、隣の席が日本人の男性で、なんとなく会話をする流れになった。
フロリダの大学でガンの研究をしていて、学会の帰りだということであった。
そのときに、「とてもおもしろいですよ」と勧めていただいた本がこれである。



アマゾンですぐ注文して、数ページ読んだまま、どこかに置いてしまい、最近また手にとって読んでみたら、あまりにおもしろいのであっという間に読んでしまった。
1950年代にガンで亡くなった貧しいタバコ農場の女性から、本人の同意なく採取されたがん細胞が“不死化したヒト細胞”として、がんや肺炎といった多くの疾患の研究に使われ、医学の進歩に計り知れない貢献をした。
この「ヒーラ」と呼ばれる細胞の存在を知り、その持ち主の女性ヘンリエッタ・ラックスの人生に興味を持った白人のジャーナリスト女性(著者のレベッカ・スクルートさん)が、彼女についての本を書こうとして、ヘンリエッタ・ラックスの子孫に連絡を取るのだが、今も貧しい暮らしをし、メディアや白人社会に強い不信感を持った家族には拒絶される。
しかし彼女は諦めず何度もトライし、最終的にはラックスさんの娘さんにあたる女性と友情のような関係を育みながら、長期取材する、というストーリーである。
それだけじゃない。これは、アメリカの医学会にいわば「利用」された黒人患者たちの歴史の物語でもあり、医療全体に進歩をもたらした細胞についての物語でもあり、ヘンリエッタ・ラックスさんの家族の物語でもあるという、私の文章ではとても伝えきれないほど壮大な物語だった。
と思ったら、日本語にもなっているではないですか。


これ読んでいた最後のほうは、半日仕事をほっぽり出したし、最後のほうはずっと泣いてた。
なかなかないことである。
私の心に響いた理由のひとつは、作者のレベッカ・スクルートさんが、何度も何度も拒絶されながら熱意でラックス家の心をほぐしていき、でも途中なんどもすったもんだあり、いつしか自分もストーリーの一部になっていく、というポイントだったかなと思う。

余談になるけれど、そういえば、似た気持ちを持った本が前にもあったなと考えて思い出してみた。

イスラエルを訪問中に、父親がテロリストに撃たれるという事件を経て、10年後ジャーナリストとなった娘が、正体を隠して犯人とその家族に接触するというストーリーで、これが出た当時、著者のローラ・ブルメンフェルドさんにインタビューしたのであった。

自分も文章を書くという仕事をしているだけに、ここまでの熱意を持って立ち向かえる題材と出会った二人がとてもうらやましい気持ちになる。
私はこれまでそこまでのネタに出会ったことはないし、これからも出会わないかもしれない。

スクルートさんは、この本の出版とともに、ヘンリエッタ・ラックスの子孫たちを援助するためにヘンリエッタ・ラックス財団を立ち上げた。
ヘンリエッタ・ラックスさんの子供たちは、母親の存在が医学の発達に多大に貢献したにもかかわらず、社会からほとんど何の恩恵も受けなかったから。

文系人間としては、たぶん人に勧められなかったら手にとらなかったかもしれない本だ。
この本を手にとるきっかけとなった出会いに感謝である。

2012年1月12日木曜日

映画「東京原発」と市民投票

先日、ある方「東京原発」という映画のDVDをいただいた。
2004年に作られた映画である。



原発がらみの映画といえば「チャイナ・シンドローム」。こんな邦画が作られていたのも知らなかった。
邦画には相当疎いほうなので、まわりの人に聞いてみたけれど、知らない人が多かった。

役所広司扮する東京都知事が、逼迫する財政を立て直すために、東京に原子力発電所を誘致する(それも新宿中央公園に)と言い出して、スタッフを唖然とさせる。喧々諤々の会議で原発誘致の是非を論じていると、フランスから極秘裏に運ばれてきたプルトニウム燃料を載せたトラックが、爆弾マニアの少年にハイジャックされる、というあらすじ。
ストーリー展開には非現実的なところもあるし、あくまでもエンターテイメントではあるのだが、都のスタッフが喧々諤々やっている間に語られる内容には、どうやってこの国に原子力発電が導入されたかとか、環境問題とのからみとか、昨年の震災以降焦って学んだようなことが素人にもわかるように解説されている(多少のバイアスはあるにしても)。

ネットでいろいろ読んでいたら、多くのページに「2002年に制作され、公開が危ぶまれたが2004年に公開にこぎつけた」というようなことが書いてある。
これはどこからきたんだろうといろいろ見てみたが、出所がわからない。
しつこく探したらなんのことはない、映画の公式ページであった。
この公式ページには「原発基礎用語」集なんてものもついている。
去年の震災以前の世界に、映画を通じて原発について啓蒙しようという努力が行われていたのか、、、

役所広司以下、段田安則、平田満、岸部一徳、吉田日出子と錚々たる顔ぶれが出演しているのだが、脚本と監督は山川元氏。
wikiによるとこの作品以来、監督作品はないみたいなのだが、山形出身の方らしく、震災後の4月に山形新聞のインタビューがあった。
なかでも
「作品は原発に賛成か反対かを問うているのではない。僕が描きたかったのは身近に恐怖が迫るまで反応しない、人間の無関心ぶりだ」
という言葉にはっとなった。

最近、私のお友達の何人かが、東京と大阪で市民投票を実現させようとがんばっている。
この投票の意味は、原発の是非を今すぐ決めようということだけじゃない。
「主権者が、原発の将来をどうするのかについて、直接の決定権を握るための国民投票を実現させることを目的として」いるということになっている。
私は、段階的に原発をなくす努力をしていくべきだという立場だけれど、一番恐ろしいのは、いろんなことが議論されないで決まっていくことだ。
原爆投下から10年も経ってない1954年に日本の国会で初めて原子力予算が上程され、可決されちゃったときみたいに。

ちなみにこの映画は、都知事の
「人間は過去のことはすぐ忘れる。終わったことには関心がない」
という言葉で終わる。
2011年に起きたことを忘れてしまうと、また重大なことが起きているのに気が付かない、なんてことになってしまうかもしれない、ということを考えさせてくれる映画だった。

2012年1月10日火曜日

断食後記

最近、いろんな方から断食について聞かれるので、自分の頭を整理する意味もこめて、ここに書いておこうと思います。

かれこれ10年くらい前から、自分の周りのヒッピー系人口のなかで、たまに断食をする人が登場するようになって、ずっと自分とは無関係だったと思ってきたのだが、2008年の終わりに初めて挑戦した。
やりたかった大きなプロジェクトを終えて、燃え尽き症候群っぽい感じになっていて、自分の頭を切り替えるためのチャンスとして挑戦したようなぼんやりとした記憶がある。
以来、平均するとだいたい1年に1度のペースで、だいたい4日から10日くらいの期間、デトックスの目的でやっている。

断食と一言にいっても、いろんなメソッドがあるのだが、私がやっているのは、アメリカではたぶん一番普及しているであろうmaster cleanseと呼ばれる手法であります。
固形のものは一切食べないけれど、レモンとカイエン・ペッパーとメイプルシロップで作るレモネードを飲む。どれだけ飲んでもいい。
なのであまり空腹感もない。
そして朝には塩水を飲んで、お通じを促進する。
このやり方には、もちろん批判もある。
レモンだけでは必要な栄養素は摂取できないし、このやり方が体に良いという科学的な根拠がないという声もある。

それでも私が断食するのは、普段カジュアルに口に入れているカフェインやお酒、砂糖、タバコといったものを、数日間でも口に入れないことで体がものすごく軽くなるからです。
食べないのは辛くない?とよく聞かれるけれど、食べないこと自体はそう辛くない。
でもカフェインをとらないことで頭が痛くなったり、ぼーっとするのはちょっと辛い。
だから、まったく日常的に仕事などをしながらやろうと試みたこともあるけれど、やっぱりあまりうまくいかなかった。

というわけで、新年から1月5日までレモネードのみの生活、そのあとはベジタブルスープ、9日に初めてアルコールを口にし、今日初めて肉を口に入れた。コーヒーはがんばって今も飲んでいない。
もともと不摂生なタイプなので、これだけクリーンな生活がどれだけ維持できるかわからないけれど。

体が軽くなることのほかに、精神的にもすっきりするとか、肌がきれいになるとか、良いところはほかにもいろいろあるのだが、今回強く思ったのは、食べ物の存在に今まで以上に強い感謝の気持ちが芽生えることである。
食べない間、ツイッターやインスタグラムでみんながアップする写真を、閉じるかわりにじーっと見て、ああ、あれがもうすぐ食べられるんだ考えてみたら、精神的にものすごくあがった。
この数日間、口に入れているものも、前とは違う気持ちで、よく味わって食べるようになった。
なんだか新しい楽しみを見つけたような気持ちである。
というわけで、新年をとてもいい気持ちで迎えられています。

2012年1月4日水曜日

2012年を迎えて



年末から、2011年はブログをちっとも書かなかった、と反省していたのに、新年のご挨拶を書くのがこんなに遅くなってしまいました。
上の写真は、龍とはまったく関係のないカエルでございます。
メールにもつけてみたら、干支に詳しくないであろう白人男子から「カエルの年なんてあったっけ?」というアホなメールがきましたが、単に去年撮った写真のなかで一番インパクトが強かったので、使いたかっただけなのです。

年賀メールも新年ブログも先送りにしてしまったのは、年末はほとんど毎晩飲み歩き、そのまま新年を迎え、断食に突入したために、大きなことを考えられなかったということもあるのだが、激動の2011年が終わり、新年を迎えて何を言えばいいのかわからなかったからだと思う。
いただいた年賀メールに、「震災があってから、幸せだとを口にする事にひっかかりを感じる世の中ですが」と書いてあるものがあった。
震災のあとに、ツイッターでどなたかが「すべてが変わったと思うのはそれまでよっぽど緩い人生を送っていたに違いない」というような趣旨のことを書いていたのを目にしたけれど、私のように海外に住んでいたって、日本であれだけの惨事が起き、かつそのあとも放射能の問題が続いた(そして今も続いている)ことで、いろんなことが根底から揺るいだと感じたのだから、緩い人生を送ってるかどうかの問題ではまったくないと思うのだが、その一方で、私の人生の何が変わったかというと、前以上にインターネットにかじりつく時間が増えた、電力の消費に神経を使うようになったという程度で、前と同じように、意味があるのかないのかわからないような仕事をして、日々過ごしているわけです。
そして、幸せってなんなのか、豊かさってなんなのか、何を目指して生きていけばいいのか、前以上にわからなくなった気さえする。
そんなふうに感じていたので、年の始めに断食でもして、頭をクリアにしようと企んだわりには、まったく進歩しなかった気がする。

というわけで、まだ沼を歩いているような気持ちでありつつ、抱負を考えてみた。
数年前から、「2012年は運気が悪い」と言われ続けてきて、ここ数年、特に大きな事故や事件に見舞われることもなく生きてきたので、おいおいそろそろくるんじゃないか的に腰が引けている部分もありますが、去年ローンチまでこぎつけなかったプロジェクトを立ち上げること、そしてよりオープンに、より柔軟に生きていこう、というのが2012年の目標です。

というわけで、みなさま、今年もお付き合いいただければと思います。
自分を炊きつけるために書いたブログを最後まで読んでくださってありがとう。