2011年1月21日金曜日

「犬の餓死という芸術」都市伝説の後日談

昨日のエントリーを書いたとき、「犬の餓死という芸術」についてのつぶやきがものすごい勢いで拡散されていたのを目の当たりにしていたので、「どうせ、ブログでちょろっと書いても意味ないだろうけど」と思いつつ、なんだか腑に落ちない気持ちを表現してみたのだが、たくさんの方が拡散してくれたおかげで、ブログの書き手の方が「フィクションのようですが」という但し書きを入れてくださった。
以前ご一緒したことがあるTech Waveの副編集長さんである増田真樹さんも、訂正ツイートを出してくださったし、((バズってる記事を自動ツィートするのはやめました))というつぶやきも出してくださった。
それでもまあ、力は小さくて、私が昨日のブログを書いたときに1700回だった、このエントリーがツイートされた回数は、その後ゆうに3000回を越えている。

昨日書いたときは、このストーリーを「フィクション」と呼ぶべきか「虚構」と呼ぶべきか迷ったけれど、あのあと気がついたことには、「都市伝説」という言葉が一番近いような気がする。
日本語って便利だなあ。

このブログを書いている方とも、ちょいとコメント欄上でのやりとりがあったのだが、
「ネットの中の大量の情報を、1つ1つ信憑性を確認していくことは
とても難しく、ガーデン紙の記者が書いていることも100%の
信憑性があるのかどうなのかわからないのが現状です。」
という反応が返ってきたときは、正直あっけにとられた。
ガーディアン紙(ガーデンじゃないよ)が書いていることがいつも100%本当かというと、それはそれで疑う目は必要だと思うけれど、一応イギリスの大新聞がギャラリーのオーナーのコメントをとって書いていることと、日本語ワールドに発生した出所のわからないストーリーと、どっちを信じるべきかは明白なことのような気がする。

でも、ウソをウソだって証明するのって意外と難しいんだな。
私、ツイッターで「年齢詐称している」的な言いがかりをつけられたことがあって、そのときにそれを「いや、ほんとに1973年生まれの37歳です」って証明しようと思ったら、戸籍でも公開しない限り無理じゃんって気がついた。
まあ別に、何歳って思われもいいじゃんって思って放置したんだけど、結局。

と話がそれましたが、昨日も書いたけど、何もこのストーリーが、芸術や人間の偽善について考えるべきことを提示しているのかもしれない、という部分を否定するつもりもない。
たとえば北久保弘之さんが、このブログのコメント欄に書いてらっしゃるコメント(「そもそも、好むと好まざるとにかかわらず餓死寸前の犬の力を借りなくては完成しない作品創りを「芸術」と呼ぶべきか?しかも本来の鑑賞者である来客の手を借りる事でしか完結しない一連の人、行動を「芸術」と呼ぶのか?」)など、考えるべきポイントはあると思う。

そして予想していたけれど、数多くの反応のなかには、フィクションだっていいじゃん調のものもあった。
「政治や経済の話とは違う」って。
でもまあ、このストーリーの大元には、実在するアーティストがいて、たとえ遠くの国のことで、日本語で書かれたことが彼に伝わることがなかったとしても、都市伝説が一人歩きした事実は知る必要があると思う。

それからもうひとつ感じたこと。
実際の展示が起きたときに、アメリカでも報じられてちょっとした騒ぎになり、署名運動にまで発展したという展開を、英語のソースで読んでるときにもちらっと思ったんだけど、舞台が途上国だってことで、そんな野蛮なことが起きても驚かないよという、ちょっとした偏見というか上から目線が、ちょびっとかもしれないけれどあるんじゃないかって気がした。

とりあえずこれをもってして、私も「犬の餓死という芸術」とはさようならしようと思うけれど、後日談ということでまとめてみました。

2011年1月20日木曜日

「犬の餓死という芸術」とツイッターのリテラシー

今日のお昼過ぎ、自分のツイッターTLに「あなたはどう思う? 「犬の餓死」という芸術」というタイトルのブログについてのつぶやきが流れてきた。
もちろんすぐにクリックしましたよ。
臨場感があってよく書けているし、描かれている内容はショッキングだし、人間として考えるべきテーマてんこもりな感じである。
しかし、なんだか違和感がある。
いくらなんでもこんなことまかり通るのかと思ったし、何よりも出典がない。

だから調べてみた。
そうしたら英語圏で語られていることはずいぶん違うことがわかった。
いろいろ読んでわかった(といっても、インターネットを使って「わかる」範囲のことだけど)のは、2007年にGuillermo 'Habacuc' Vargasというコスタリカ人のアーティストが、ニカラグアで、たしかに弱った犬を使って展示をした。
そしたらものすごい大騒ぎになって、100万人以上の人が展示をやめさせるための署名運動に参加した。
が、2008年になって、ギャラリーのオーナーが、展示に使われた犬は、展示の3時間以外の時間はつながれてもいなかったし、水も食料も与えられていた、と証言したのである。
この後日談は、いくつかの動物愛護団体のウェブサイトに載っていたので、もとをたどっていったら、ガーディアン紙の記事にたどり着いた。
しかもこのブログに書かれている後半の経過(展示中に犬を引き取る人があらわれたという流れから、「犬の餓死」が完成するまで)については、いろいろ探してみたけど、これについての記述がまったく見つからないのです。
となると、書き手の意図はおいておいても、断定はできないけれどこのストーリーはかなりの確率で虚構だということになる。
(ちなみに英語メディアでは、hoaxやstuntという言葉が使われていた。

2008年に書かれたこのエントリー、私が見たときには、1700回以上ツイートされている。
私が今日、最初にこれを見てからも、わりと影響力のある人達(フォロワーが何千人というレベル)がツイートしていて、すごい勢いで拡散されている様子が伺えた。
私のTLがに流れてきた部分については、RTしている人に「調べてみたらこうでした」というリプライを飛ばしたけれど、現時点では無反応の人もいる。
ちなみに、ここに書かれていることは、人間の偽善や芸術のあり方を考えるうえで、とても重要なことだと思うし、それを否定するつもりはない。
でも寓話だったら寓話としてプレゼンするべきだ。
ショッキングなのは、ちょっと調べたらすぐわかることが、チェックされることなくどんどん拡散されていくこと。
最初に「南米コスタリカでの話のようです」と心もとない記述があるし、出典もないのに、どうしてこれを読んで疑問を抱かないのだろうか?

先日、山崎正和氏が読売新聞に寄稿した文章の一部が、ツイッターワールドで話題になっていた。
「もう一つ心配なのが、大衆社会がより悪くなることだ。ブログやツイッターの普及により、知的訓練を受けていない人が発信する楽しみを覚えた。これが新聞や本の軽視につながり、「責任を持って情報を選択する編集」が弱くなれば、国民の知的低下を招き、関心の範囲を狭くしてしまう。ネット時代にあっても、責任あるマスコミが権威を持つ社会にしていく必要がある」
というあれです。
これについての反応は、トゥゲッターでもまとめられていたので、こちらを参照
社員のツイッターを禁止したという「疑惑」が取りざたされていた読売新聞なだけに大騒ぎになっちゃったわけだし、時代遅れだとか、上から目線と突っ込みたくなる気持ちをくすぐられるのだが、一部ではこれが「社説」として拡散されて、山崎氏の言っていることがはからずも証明されちゃったじゃん、という微妙な空気が流れたのだった。

ツイッターは、お!と思ったものをクリックひとつでRTできちゃうところが危険である。
私も、使い始めの初期には、ファクトチェックを怠ってはからずも間違ったことが拡散する一助になってしまったこともあるし、今も気がつかずにやっちゃってることもあるかもしれない。
でも、なるべく出典や出所は確かめるようにしている。
私がツイッターを使い始めたわりと初期の段階で、「ツイッターのユーザーはリテラシーが低い」と言ったエラい人がいた(結局、この人は今はツイッターのヘビーユーザーになってるけど)。
この人の言うとおりになっちゃったら悔しいと思う。
インターネットメディアの強みは自由なところだけど、自分たちで作っていかないといけないという責任がある。
今日そういうことを改めて思い出した。
自戒とともに。

2011年1月16日日曜日

「左翼リベラル」と呼ばれて

先日、ツイッターのタイムラインで話題になっていた見知らぬブログに、ついコメントともつかないようなコメント(「つい読みふけってしまった」)をしてしまったのがきっかけで、ご自分で「アメリカの極右翼です」とおっしゃっている方に、「左翼リベラル」と呼ばわりされる羽目になった。

たしかに政治思想的には、私は左のほうなんだろうよ、と思います。
いやでも、一応右のほうとされる新聞で働いていたこともあるし、小学館のSAPIOに原稿を書いたこともあるし、朝日新聞社関連の媒体に寄稿することもあるし、実際のところ、自分が「左翼リベラル」だと意識することは、ほとんどない。
アメリカに暮らす一人の人間として、医療は政府がやるべきことだと思っているし、そういってきたから、そういう意味では左ってことになるかもしれないけれど、かといって、民主党やオバマの政策に手放しで賛成するわけでもない。
個々の政策で判断するべきだと思うし、そういう意味では、そもそも、「右」「左」という分け方自体がもう今の時代にものすごくナンセンスな気がする。

ちなみに、他人のブログを批判したり、攻撃したりすること自体もあまり好きではないので、どうしても奥歯にモノが挟まったような言い方になってしまうけれど、私が一番びっくりしたのは、例のツーソンの事件を受けて、暴力を煽るような表現を規制する動きが出たことについて「惨事を無駄にしないリベラル」というタイトルで、右派に対する言論弾圧だ、という趣旨のエントリーが書かれていたことである。
ひとつの事象について、これだけまったく違う見方ができるということが驚きであった。
自分の主義主張と違う人を殺そうとした若者がいた、という事実に、右派だろうと、左派だろうと、政治家たちも衝撃を受けたから、規制しようという流れになったのではないかと思うのだが。
かといって、左側の言論で、共和党支持基盤の人々を見て、銃が横行する田舎の野蛮人たち、と上から目線で語っているのも、それはそれでなんか違う気がする。

昨日のニューヨーク・タイムズ紙によると、そもそもの標的だったガブリエラ・ギフォード議員は、半分ユダヤ系で、スペイン語を話すことができて、不法移民の学生に市民権を与える法案を支持していた一方で、国境周辺の警備の強化の支持者だった、死刑には反対だったけど、自衛権(銃を持つ権利)は支持していた。
これを読むと、彼女に「民主党議員」という枕詞を使うことが、あまりにもリアリティとかけ離れているような気がしてくる。
そもそも何について語るときでも、枕詞というものを使うこと自体が、一般化することでリアリティをそいでしまうのかもしれないけど。

ギフォード議員は、何度か強盗にあったことがあったらしい。
私はアリゾナ州を時間をかけて回った経験が3度あるし、アメリカの田舎を旅したり、人の家を訪ねるなかで、銃を目にしたのは、一度や二度じゃない。
オクラホマで泊めてくれた同世代のネイティブアメリカンの女の子家にライフルがかかっていたときに、それについてたずねると、「自分の食べ物は自分で狩るのが、私たちの民族の伝統」という答えが返ってきて、自分が「銃とともに生きる人たち」を、ある決まったステレオタイプで見ていたことに気がついてはっとなったこともあった。
個人的には、銃をもうちょっとうまく規制したら事件は減るだろうよ、と思うけれど、過疎の地域で自分の家を守っていくためには銃は必要だと信じている人たちの考えを、無下に否定することもできない。

この事件が起きるまで知らなかったギフォード議員の政治思想について読んで、「民主党」が一枚岩でないことがわかったし、共和党側にも、スコット・ブラウン議員とか、オリンピア・スノウ議員のように党派ラインと必ずしも一致しない考えを持つ人たちがいるということも、最近になって学んだことだ。
こういう人たちが新世代議員として登場していることを見ても、相手方の主張を「左翼だ」「右翼だ」と攻撃しあう政治のスタイルが、ものすごく古臭く見える。
そして、だからこそ、先日のオバマの演説は、左派右派を越えて、支持されたのだろうと思うのです。
政治の本来の目的が、人々の暮らしを改善することだということを考えると、主義主張に対するレッテル貼りほど無駄なことはないんじゃないかと思うのだが、どうでしょうか。

2011年1月9日日曜日

映画「愛する人」とナオミ・ワッツ

15日から公開される「愛する人」(原題Mother and Daughter)という映画がある。
邦題に対するつっこみはおいておいて、うーむとうなってしまう良い映画であった。

この映画について、ナオミ・ワッツにインタビューする機会に恵まれた。
映画についてのインタビューは、雑誌などに出たので割愛するが、ナオミは想像していたのとタイプの違う女性だった。
柔らかいのだが、芯の強いフェミニストタイプ。
たとえば男性をサポートするような役柄や、被害者の役柄をのぞいて、女優が演じることができる役柄がハリウッド映画において少なすぎるとぷんすか怒っていたり、「名前は言わないけど、女性をサポートする役柄はやらないという俳優さんって驚くほど多いのよ」と言ってみたり。
自分は母親になるという選択をしたけれど、「女性の多くは社会のプレッシャーを受けて、子供を持たないといけないという幻想に追い詰められる。女性だからといって母親にならなければならないというのはおかしい」という発言もあった。
そして、映画というものは、コミュニケーションの手段であって「映画を媒介に女性たちがいろんなことを考えられるチャンスになればいいと思う」。

今日、このブログの冒頭を書きながら、「良い映画だ」と思った理由はなんだろう、と自分の頭のなかを整理しようとしたのだが、インタビューの内容を頭のなかで辿るうちに思い出した。
この映画、どちらかといえば、暗くて辛いストーリーである。
Motherhood、母と娘の関係という大きなテーマがあって、そこにさらにティーンエージャーの妊娠とか、不妊症とか、養子縁組とかいろいろ複雑な問題が絡んでくる。
そういうことをなるべく先送りにしてきた30代後半女性としては、できれば避けて通りたいタイプの問題ばかりを取り扱っている。
それなのにこんな私をつかまえて「母親になりたいかどうか」という根本的な問題をとことん考えたほうがいいのではないか、と思わせてしまうパワーがあるのである。
ナオミがいう「コミュニケーションの道具」という役割をきちんと果たしている。
それ以外にも、アネット・べニングの天才的な演技とか、ナオミの童顔なのになんで?と思わせてしまう不思議なエロスとか、ほかにも見所は満載。
おすすめの秀作である。

2011年1月2日日曜日

今年もよろしくお願いします。














明けましておめでとうございます。

毎年のことながら、あれよあれよという間に1年が終わり、新しい年が始まってしまった。
年末風邪をひいたので、寝込んでいる間に宴会の大半を逃し、29日から宴会に参戦。
でも気がついたらもう2日。
今さらながらに年賀メールを書いたり、大掃除をしたりしている始末である。
おまけに明日からもう仕事が始まってしまうじゃないか。
新年からつまづいた感満載である。

思えば2010年はいろんなことを考えた年であった。
メディアの役割と将来、自分のライターとしての存在意義、都会での暮らし、ライフスタイル・・・と、いろんなことをたくさんのお酒を飲みながら、頭が痛くなるくらい考えた。
考えた結果、とりあえずは週末を自然のなかで過ごすことに決め、さらにはなんとか引越しを敢行してついにマンハッタンを脱出した。
そして、インディのデジタルマガジンPeriscopeを立ち上げることに決め、ブレーンストーミングを始めた。
こう振り返ってみると、いろんな意味で変動の1年だったのかも。

昨日、友達にNew Year's resolutionはなんだとたずねられて、まだそこまで頭が追いついてない自分に唖然となった。
とっさに「全部スキャンする」と答えたら呆れられた。
せめて『身軽に生きる』にしようことになりました。
これがひとつ。

今日になって、2011年をどう生きたいか、ということを真剣に考えてみた。
年末からちょろちょろ「マヤカレンダー」とか「2012年滅亡説」が耳に入ってくる。
「この世の終わり」といえば、前回は2000年になる直前だった。
Y2Kでトリップアウトしまくったサイケなみなさんのお祭り騒ぎを思い出したらノスタルジーでちょっと胸がきゅんとなった。
それで思い出すのはLive like there is no tomorrowというフレーズである(liveが入ってる動詞の部分はparty, drinkなどにアレンジ可能)
「刹那的」「やけくそ」に近い感じでちょいとネガティブなニュアンスを感じるときが多いけれど、マヤカレンダーを真剣に受け止めるべきかどうかは別として、明日がやってこない可能性は誰にでもあることを考えたら、明日がこない可能性を念頭に生きることは悪いことじゃない。
今年はマヤカレンダーにあやかって明日がやってこなかったとしても後悔しない勢いでいこうと思います。
具体的には、よく遊び、よく働け、やりたいことは全部やってしまえ、ということである。
というわけで、みなさん、今年もよろしくお付き合いください。