2011年1月20日木曜日

「犬の餓死という芸術」とツイッターのリテラシー

今日のお昼過ぎ、自分のツイッターTLに「あなたはどう思う? 「犬の餓死」という芸術」というタイトルのブログについてのつぶやきが流れてきた。
もちろんすぐにクリックしましたよ。
臨場感があってよく書けているし、描かれている内容はショッキングだし、人間として考えるべきテーマてんこもりな感じである。
しかし、なんだか違和感がある。
いくらなんでもこんなことまかり通るのかと思ったし、何よりも出典がない。

だから調べてみた。
そうしたら英語圏で語られていることはずいぶん違うことがわかった。
いろいろ読んでわかった(といっても、インターネットを使って「わかる」範囲のことだけど)のは、2007年にGuillermo 'Habacuc' Vargasというコスタリカ人のアーティストが、ニカラグアで、たしかに弱った犬を使って展示をした。
そしたらものすごい大騒ぎになって、100万人以上の人が展示をやめさせるための署名運動に参加した。
が、2008年になって、ギャラリーのオーナーが、展示に使われた犬は、展示の3時間以外の時間はつながれてもいなかったし、水も食料も与えられていた、と証言したのである。
この後日談は、いくつかの動物愛護団体のウェブサイトに載っていたので、もとをたどっていったら、ガーディアン紙の記事にたどり着いた。
しかもこのブログに書かれている後半の経過(展示中に犬を引き取る人があらわれたという流れから、「犬の餓死」が完成するまで)については、いろいろ探してみたけど、これについての記述がまったく見つからないのです。
となると、書き手の意図はおいておいても、断定はできないけれどこのストーリーはかなりの確率で虚構だということになる。
(ちなみに英語メディアでは、hoaxやstuntという言葉が使われていた。

2008年に書かれたこのエントリー、私が見たときには、1700回以上ツイートされている。
私が今日、最初にこれを見てからも、わりと影響力のある人達(フォロワーが何千人というレベル)がツイートしていて、すごい勢いで拡散されている様子が伺えた。
私のTLがに流れてきた部分については、RTしている人に「調べてみたらこうでした」というリプライを飛ばしたけれど、現時点では無反応の人もいる。
ちなみに、ここに書かれていることは、人間の偽善や芸術のあり方を考えるうえで、とても重要なことだと思うし、それを否定するつもりはない。
でも寓話だったら寓話としてプレゼンするべきだ。
ショッキングなのは、ちょっと調べたらすぐわかることが、チェックされることなくどんどん拡散されていくこと。
最初に「南米コスタリカでの話のようです」と心もとない記述があるし、出典もないのに、どうしてこれを読んで疑問を抱かないのだろうか?

先日、山崎正和氏が読売新聞に寄稿した文章の一部が、ツイッターワールドで話題になっていた。
「もう一つ心配なのが、大衆社会がより悪くなることだ。ブログやツイッターの普及により、知的訓練を受けていない人が発信する楽しみを覚えた。これが新聞や本の軽視につながり、「責任を持って情報を選択する編集」が弱くなれば、国民の知的低下を招き、関心の範囲を狭くしてしまう。ネット時代にあっても、責任あるマスコミが権威を持つ社会にしていく必要がある」
というあれです。
これについての反応は、トゥゲッターでもまとめられていたので、こちらを参照
社員のツイッターを禁止したという「疑惑」が取りざたされていた読売新聞なだけに大騒ぎになっちゃったわけだし、時代遅れだとか、上から目線と突っ込みたくなる気持ちをくすぐられるのだが、一部ではこれが「社説」として拡散されて、山崎氏の言っていることがはからずも証明されちゃったじゃん、という微妙な空気が流れたのだった。

ツイッターは、お!と思ったものをクリックひとつでRTできちゃうところが危険である。
私も、使い始めの初期には、ファクトチェックを怠ってはからずも間違ったことが拡散する一助になってしまったこともあるし、今も気がつかずにやっちゃってることもあるかもしれない。
でも、なるべく出典や出所は確かめるようにしている。
私がツイッターを使い始めたわりと初期の段階で、「ツイッターのユーザーはリテラシーが低い」と言ったエラい人がいた(結局、この人は今はツイッターのヘビーユーザーになってるけど)。
この人の言うとおりになっちゃったら悔しいと思う。
インターネットメディアの強みは自由なところだけど、自分たちで作っていかないといけないという責任がある。
今日そういうことを改めて思い出した。
自戒とともに。