2011年1月16日日曜日

「左翼リベラル」と呼ばれて

先日、ツイッターのタイムラインで話題になっていた見知らぬブログに、ついコメントともつかないようなコメント(「つい読みふけってしまった」)をしてしまったのがきっかけで、ご自分で「アメリカの極右翼です」とおっしゃっている方に、「左翼リベラル」と呼ばわりされる羽目になった。

たしかに政治思想的には、私は左のほうなんだろうよ、と思います。
いやでも、一応右のほうとされる新聞で働いていたこともあるし、小学館のSAPIOに原稿を書いたこともあるし、朝日新聞社関連の媒体に寄稿することもあるし、実際のところ、自分が「左翼リベラル」だと意識することは、ほとんどない。
アメリカに暮らす一人の人間として、医療は政府がやるべきことだと思っているし、そういってきたから、そういう意味では左ってことになるかもしれないけれど、かといって、民主党やオバマの政策に手放しで賛成するわけでもない。
個々の政策で判断するべきだと思うし、そういう意味では、そもそも、「右」「左」という分け方自体がもう今の時代にものすごくナンセンスな気がする。

ちなみに、他人のブログを批判したり、攻撃したりすること自体もあまり好きではないので、どうしても奥歯にモノが挟まったような言い方になってしまうけれど、私が一番びっくりしたのは、例のツーソンの事件を受けて、暴力を煽るような表現を規制する動きが出たことについて「惨事を無駄にしないリベラル」というタイトルで、右派に対する言論弾圧だ、という趣旨のエントリーが書かれていたことである。
ひとつの事象について、これだけまったく違う見方ができるということが驚きであった。
自分の主義主張と違う人を殺そうとした若者がいた、という事実に、右派だろうと、左派だろうと、政治家たちも衝撃を受けたから、規制しようという流れになったのではないかと思うのだが。
かといって、左側の言論で、共和党支持基盤の人々を見て、銃が横行する田舎の野蛮人たち、と上から目線で語っているのも、それはそれでなんか違う気がする。

昨日のニューヨーク・タイムズ紙によると、そもそもの標的だったガブリエラ・ギフォード議員は、半分ユダヤ系で、スペイン語を話すことができて、不法移民の学生に市民権を与える法案を支持していた一方で、国境周辺の警備の強化の支持者だった、死刑には反対だったけど、自衛権(銃を持つ権利)は支持していた。
これを読むと、彼女に「民主党議員」という枕詞を使うことが、あまりにもリアリティとかけ離れているような気がしてくる。
そもそも何について語るときでも、枕詞というものを使うこと自体が、一般化することでリアリティをそいでしまうのかもしれないけど。

ギフォード議員は、何度か強盗にあったことがあったらしい。
私はアリゾナ州を時間をかけて回った経験が3度あるし、アメリカの田舎を旅したり、人の家を訪ねるなかで、銃を目にしたのは、一度や二度じゃない。
オクラホマで泊めてくれた同世代のネイティブアメリカンの女の子家にライフルがかかっていたときに、それについてたずねると、「自分の食べ物は自分で狩るのが、私たちの民族の伝統」という答えが返ってきて、自分が「銃とともに生きる人たち」を、ある決まったステレオタイプで見ていたことに気がついてはっとなったこともあった。
個人的には、銃をもうちょっとうまく規制したら事件は減るだろうよ、と思うけれど、過疎の地域で自分の家を守っていくためには銃は必要だと信じている人たちの考えを、無下に否定することもできない。

この事件が起きるまで知らなかったギフォード議員の政治思想について読んで、「民主党」が一枚岩でないことがわかったし、共和党側にも、スコット・ブラウン議員とか、オリンピア・スノウ議員のように党派ラインと必ずしも一致しない考えを持つ人たちがいるということも、最近になって学んだことだ。
こういう人たちが新世代議員として登場していることを見ても、相手方の主張を「左翼だ」「右翼だ」と攻撃しあう政治のスタイルが、ものすごく古臭く見える。
そして、だからこそ、先日のオバマの演説は、左派右派を越えて、支持されたのだろうと思うのです。
政治の本来の目的が、人々の暮らしを改善することだということを考えると、主義主張に対するレッテル貼りほど無駄なことはないんじゃないかと思うのだが、どうでしょうか。