2011年4月14日木曜日

そらのーとについて考えたこと

大入稿祭りをようやく切り抜けたときに、震災が起き、帰国し、戻ってきたときにはまた入稿があって、ついつい忘れかけながら、ずっと意識のどこかで考えていたことがある。
それは、そらのーとの事件である。

私のブログを読んでくれている人には知らない人も多いと思うのだが、この事件についてはいろんなところでまとめられているし、当事者の間でまだ解決していないようである。
事件の概要を私がまとめたり、特定の記事を貼ったりすると、なんだかおかしなことになってしまいそうなので、そのへんは割愛します。
ネットで検索してくれればすぐわかります。

5月号のヴォーグで、デジタル別冊の鼎談の取材というお仕事をさせていただいた。


鼎談に参加したのは、メディア・ジャーナリストの津田大介さん、コンデナストの田端信太郎さん、そらのーとの広報そらのさん(本名は佐藤綾香さん)である。

私はどっちかというとデジタルの世界では後のほうに参入したほうである。
ネ申とか、増田とか、デジタル社会特有のスラングも最近までよくわかってなかったくらいなのだが、たぶんカルチャーやファッション方面では、デジタルに強いと思われているようで、編集者の方がたまたま東京にいた私に声をかけてくださった。
ヴォーグがデジタル別冊か、と思うかもしれないが、ちょうど10年前にEヴォーグというのをやったらしく、それでまた、という流れだったようです。
(ちなみに10年前のEヴォーグでは、高城剛さんがおもしろいことを言っており、鼎談のときにはそれで盛り上がったのですが、それは雑誌に書いていあるのでそちらをどうぞ)

で、ちょうど校了のぎりぎり前くらいのときに、そらのーとの事件があって、密かにドキドキしていたのだが、それは月刊誌の宿命だし、まあ事件が起きたからと言って変わるようなことは書いてなかったので、ほっとしたりしつつも、そんなこともあって、この件の展開をネットで追っていた。

そもそも、長い間2ちゃんねるのあるデジタル社会は怖いところだと思っていて、なんとか自分を奮い立たせておっかなびっくりブログを始め、だんだん恐怖心を克服し、ようやく思っていたほど怖くないと楽しめるようになった臆病者なので、私にはそらのーとの事件が、「怖いネット」代表選手が、「意外と怖くなったネット」社会に殴りこみにきた、というようにみえた。

それはそれとして、鼎談のときには、ネットの匿名性という話に通じるような、日本人のウェブ上のアイデンティティの変貌の話題が出た。
かつてのデジタル社会では、ハンドルネームのもとに、リアルでの自分とは別の人格が生きられていた。
けれども徐々に実名化が進み、ツイッターの流行やミクシィの衰退につながっている。
その文脈の延長線上にそこにそらのーとの「ダダ漏れ」がある。
自分のナマのアイデンティティを、あまり加工しないで、ネットに流しているそらのさんに興味を持つ人が増え、「ダダ漏れ」が支持されたことは、田端さんの言葉でいうと、「デジタル社会の最先端は生々しいんですよ」ということになる。

そらのーとが「メディア」かどうか、という議論は、今回の騒ぎの周辺でもされていた。
編集権を放棄しているものをメディアと呼べるのか、ということである。
そういう意味では、メディアと呼べないのかもしれない。
ただ、「ダダ漏れ」の生々しさが支持された事実はそこに厳然とあるわけで、支持された文脈については覚えておくべきかなと思う。

そんなことに留意しつつ、10年後、デジタル世界のアイデンティティがどう変貌しているのかを考えると、ちょっとわくわくするのである。