2011年7月27日水曜日

911とジョナサン・サフラン・フォア

今年は911の10周年です。
ちょっと前に実家に帰ったときに、911の直後に書いた文章が出てきて、あのとき自分が考えていたことを振り返ってはっとなったことがある。

あのときどれだけの人がニューヨークにいたのかわからないけれど、あのときここにいた人なら、あの事件を体験したことが、多かれ少なかれ、その後の人生に影響を及ぼした、ということは共感してもらえると思う。
それは、オサマ・ビンラディンとか、その後のアメリカの外交政策とか、陰謀論とはまったく関係のないところに存在する「傷」のようなものである。

最近はすっかり減ったけれど、その後、日本人と話をしていて、「あのときどこにいたんですか?」と体験談を求められることがたまにあって、そのたびに、本当だけれども、そんなに楽しくもない実話をしてきた(まあだいたい、そういう場合は、「怖かったけれど、大丈夫でした」的な話を期待されていることが多い気がする。知り合いが亡くなって、というと、急に気まずくなったりするので、そのへんの話はあまりしないできた気がする)。

細かい話は省くけれど、自分にとって一番大きかったのは、とてもちかしい人が、愛する人を失ったという事件だった。
そして、自分が愛する人が困っているときに、飛んでいけないという体験が、報道機関で働くことに対して疑問を抱かせたし、最終的には会社を辞めるという決断につながったわけで、その後の人生が大きく変わったということもあるし、もっと単純に無力感とか喪失とか、そういうたぶんこの事件がなくても生きていたら必ず味わうであろうことを、世界の歴史に残る事件とともに体験してしまったことで、インパクト倍増、といった感じになったのかもしれない。

「ものすごくうるさくて、ありえないほど近い」は、私にとって911を題材にした初めての小説だった。
何年か前に友達にもらって911がテーマになっているのを知らずに読み始めた。
そして、その話を、編集者の方にしたご縁で、今回、日本語版が刊行されるにあたり、帯に使うための文章を依頼された。



私がこのストーリーに引きこまれた理由のひとつは、とてもパーソナルなものだから。
そして、このストーリーはいったんは終わるけれど、物語はそのあとも延々続くんだということを考えさせてくれたから。
「傷」は時間が経てば癒えていって、痛む回数や思い出す頻度はちょっとずつ減るけれど、その「傷」はいつも自分のなかのどこかにあって、一緒に生きていくのだと思うから。
そういう意味では、911後のアメリカにまったく興味がない人でも共感できる作品だし、未曽有の大事件のあとで、痛みとどう付き合っていくかを考えるには良い材料になるのではないかと思う。
そして、このタイミングで日本語版の刊行を迎えたこの小説が、日本でどう読まれるのか、今、とても気になっています。