マンハッタンの家賃が高いとこぼす彼女に、当時クイーンズに住んでいた私は「クイーンズ高くないよ」と言ったら、返ってきた答えは「私、アジア人のこと、怖いのね」。
お前もアジア人だろうにと呆れたが、自分がアジア人だということを棚に上げる人はたまにいるので、黙っておいた。
それから何年か経って、私がフリーになって行ったり来たりするのがだんだん辛くなってマンハッタンに引っ越したとき、彼女はクイーンズに引っ越そうとしていた。
「私、マンハッタンに住める人が信じられない」
そのときは、なんてプライドが高いイヤな女だと思ったが、最近、思い出して、なんか許せるなって急に思った。
人生にはいろんなフェイズがあって、そのときにあった住処があるなと思うから。
そんなことをつらつら考えているのは、自分もまた久しぶりに引っ越しをすることを決めたからである。
東京もそうだろうと思うけれど、ニューヨークのようなキャピタリズムのど真ん中に住んでいると、「どこに住むか」ということは、人のエゴと密接に関わりがあるなとつくづく思う。
「家、どこ?」という質問に対する答えをジャッジする人が多いのだということを、クイーンズに引っ越したときにつくづく思った。
当時は、稼ぎも悪かったし、駆け出しだった。
家賃も安いし、安全だし、便利だし、ご飯は美味しいし、自分の身の丈にぴったりだと思って選んだのだが、「家どこ?」と聞かれ、「クイーンズ」と答えたときの、あ、ジャッジされてんな、と思う感じはよく覚えている。
労働者と移民が住むところってイメージが強かったから。
「ブルックリンじゃないの?」
という反応もたまにあった。
ブルックリンは同じように安いけれど、ちょっとイケてるカルチャーがある。
一方、クイーンズはイケテない、みたいなね。
私個人的には、あんな人情味のある場所に住んだことはあとにも先にもないと思うし、きわめて幸せだった。
未だに思い出して、ああよかったな、なんて思うこともある。
最近では、クイーンズに住む日本人もぐっと増えたし、ちょっぴり高級感のある住宅街なんかも増えて、そういうことは少なくなってきたかもしれない。
と、余談が長くなったけれど、再び今引越しの準備をしているわけである。
ここ何年か住んでいたマンションもまた良いところだった。
毎日朝起きて、仕事をして、深夜に帰ってきて、ほっと一息つくとき、私は家に守られているのだ、とずっと思ってきた。
いろんな人がしょっちゅうふらっと遊びにきてくれたし、なんども女子飲みの宴会場になって、大量なアルコールが消費されてきた。
最近、わんこお断りのビルが多いなか、犬フレンドリーなビルだったのもよかった。
出張がものすごく多かったので、空港に行きやすかったし、どこに行くのもわりと便利だった。
いろんな意味で、自分のそのときのフェイズにあった住処だったと思う。
ここしばらく、ビルに囲まれた家に帰る、というライフスタイルがちょっくら息苦しいと感じることが増えてきた。
そろそろもうちょっとゆっくり呼吸ができる場所に住みたいな、と思ったり、口に出すようになってからはや1年。
景気もあまりよくないし、今仲間とデジタルマガジンを準備中なので、金銭的なリスクを減らしたいという気持ちもある。
何のために働くか、ということを改めて考えなおす時期だなと感じている、ということもある。
「便利な都会のど真ん中でせかせかがんばる」というフェイズが自分のなかで終わりつつあるような。
そんなことを考えながら、心のなかで昔の友達に「ビッチだなんて思ってごめん」と謝ってみたりしています。