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2012年1月12日木曜日

映画「東京原発」と市民投票

先日、ある方「東京原発」という映画のDVDをいただいた。
2004年に作られた映画である。



原発がらみの映画といえば「チャイナ・シンドローム」。こんな邦画が作られていたのも知らなかった。
邦画には相当疎いほうなので、まわりの人に聞いてみたけれど、知らない人が多かった。

役所広司扮する東京都知事が、逼迫する財政を立て直すために、東京に原子力発電所を誘致する(それも新宿中央公園に)と言い出して、スタッフを唖然とさせる。喧々諤々の会議で原発誘致の是非を論じていると、フランスから極秘裏に運ばれてきたプルトニウム燃料を載せたトラックが、爆弾マニアの少年にハイジャックされる、というあらすじ。
ストーリー展開には非現実的なところもあるし、あくまでもエンターテイメントではあるのだが、都のスタッフが喧々諤々やっている間に語られる内容には、どうやってこの国に原子力発電が導入されたかとか、環境問題とのからみとか、昨年の震災以降焦って学んだようなことが素人にもわかるように解説されている(多少のバイアスはあるにしても)。

ネットでいろいろ読んでいたら、多くのページに「2002年に制作され、公開が危ぶまれたが2004年に公開にこぎつけた」というようなことが書いてある。
これはどこからきたんだろうといろいろ見てみたが、出所がわからない。
しつこく探したらなんのことはない、映画の公式ページであった。
この公式ページには「原発基礎用語」集なんてものもついている。
去年の震災以前の世界に、映画を通じて原発について啓蒙しようという努力が行われていたのか、、、

役所広司以下、段田安則、平田満、岸部一徳、吉田日出子と錚々たる顔ぶれが出演しているのだが、脚本と監督は山川元氏。
wikiによるとこの作品以来、監督作品はないみたいなのだが、山形出身の方らしく、震災後の4月に山形新聞のインタビューがあった。
なかでも
「作品は原発に賛成か反対かを問うているのではない。僕が描きたかったのは身近に恐怖が迫るまで反応しない、人間の無関心ぶりだ」
という言葉にはっとなった。

最近、私のお友達の何人かが、東京と大阪で市民投票を実現させようとがんばっている。
この投票の意味は、原発の是非を今すぐ決めようということだけじゃない。
「主権者が、原発の将来をどうするのかについて、直接の決定権を握るための国民投票を実現させることを目的として」いるということになっている。
私は、段階的に原発をなくす努力をしていくべきだという立場だけれど、一番恐ろしいのは、いろんなことが議論されないで決まっていくことだ。
原爆投下から10年も経ってない1954年に日本の国会で初めて原子力予算が上程され、可決されちゃったときみたいに。

ちなみにこの映画は、都知事の
「人間は過去のことはすぐ忘れる。終わったことには関心がない」
という言葉で終わる。
2011年に起きたことを忘れてしまうと、また重大なことが起きているのに気が付かない、なんてことになってしまうかもしれない、ということを考えさせてくれる映画だった。

2011年5月17日火曜日

「チャイナ・シンドローム」とアメリカの原発世論

週末、ペンシルバニア州のスリーマイル・アイランド周辺の地域に取材に行ってきました。
今回は週刊朝日のお手伝いとして行ったので、詳しい取材の内容は差し控えますが、帰ってきてから現地で何度か話題に出た「チャイナ・シンドローム」を見た。



この映画が公開されたのが1979年3月16日。
スリーマイル・アイランドの事故が起きたのが3月28日。
ものすごいタイミングで事故が起きたために、予想以上にヒットしちゃって、アカデミー賞で多数のノミネーションを受けたといういわくつきの作品である。

女性リポーター(ジェーン・フォンダ)が、原子力発電所に取材に行き、たまたま緊迫した場面に居合わせる。
撮影したテープを放映しようとするが、上司を通じて電力会社からの圧力がかかり放映できない。
怒ったカメラマン(マイケル・ダグラス)がテープを盗み、彼女がその状況に対処しようとするうちに、発電所の危険を知ってしまう・・・という話である。

この映画が公開されたあとに、実際に初の原発事故が起きたと思うと、ときどき世の中には奇妙なめぐりあわせが重なるもんだと思う。
が、結局、その後のアメリカの反原発運動は、一度はある程度の盛り上がりを見せたものの、その後、沈静化して、局地的な感じに収束してしまい、(間をかなり乱暴に省略すると)今にいたったということはみなさんご存知の通りです。

で、映画を見て感じたこと。
まずひとつには、映画での原発の描かれ方がハリウッド流でやっぱりリアルじゃないということである。
当時はアカデミー賞の美術部門にノミネートされたらしいんだが、今みるとセットが妙にちゃちい(これは30年前のセットだからしょうがないともいえる)。
そして事故が起きそうになったときの様子なんかも、妙に過剰にドラマチックで、現実感にいまひとつ欠ける。
あまり知識のない人がみたら「原発けしからん」となるかもしれないが、ある程度、知識のある人だったら、?と思うのではないかというシーンが多々ある。

それから、原発反対派の若者たちが、公聴会に参加して、反対を表明するシーンがある。
もちろん反対の理由などを説明するのだけれど、政治運動としては効果が低そうなパフォーマンスをするのです。
当時の反原発運動は、反戦、反核の運動と強く結びついて行われたことが垣間見える。
そして、当時リベラルのシンボル的存在だったジェーン・フォンダが出ていることやストーリー展開から、この映画の作り手が反原発のリベラルな思想の持ち主だと推測すると、運動家たちがラディカルで現実感のないキャラクターに見えてしまうのは皮肉なことだ。

福島のことが起きるまでは、私のこの国の原発世論については新聞などでたまに読む程度で、実際、あまり知らなかった。
最近の空気感については、冷泉彰彦さんがニューズウィークのコラムに書いていて、参考になります。

スリーマイルの事故が起きた当時のことを覚えている世代と話をすると、気がつくことがひとつある。
それは、アメリカにおいて原発を受け入れてきたコミュニティや原発支持派が優勢なコミュニティは、だいたい保守的な農村部だということだ。
しかも1970年代前半には第四次中東戦争をきっかけにOAPECが禁輸措置をとるようになり、エネルギー依存からの脱却が叫ばれていたために、原子力発電は「愛国的」だと喧伝されていた。
保守派の優勢な地域で、原発が受け入れらた裏には、こういう時代背景があった。
そして、反核、反戦運動と結びついた反原発運動に対する反感があったことは容易に想像できる。

この2年弱、GQ Japanで「アメリカ自家中毒」というタイトルのコラムを書かせていただいてきた(次号から別の連載になります)。
毎号、何かをテーマに、右派と左派が喧々諤々やりあう様子をレポートしてきたのだが、左派が言っていることと、右派が言ってることの乖離があまりに激しくて、よくひとつの国として成立しているもんだと思いながら書いてきた。
そして、「チャイナ・シンドローム」を見て、それは70年代も、今も、ほとんど変わらない現実なんだと気がついた。

2008年の選挙を控えた夏に、雑誌「コヨーテ」の企画で、市井のおじさんおばさんたちを取材しながら全米を旅したときにも、同じ感覚を覚えたことを思い出した。
田舎の暮らしの現実と、都会の人の現実はあまりにも違う。
ジェーン・フォンダやマイケル・ムーアのようなリベラル代表選手の主張が、こういう場所の人たちの耳に入らない理由がよくわかるのです。
多くの問題について、私は左派の考え方にシンパシーを覚えることが多いけれど、方法論として、理想主義的すぎたり、ナイーブだったり、急進的すぎたりすると、実際の変革に結びつくのは難しい。
当事者不在で議論が進んでしまうからだ。
ということを、スリーマイル周辺の地域を訪ねてみてあらためて実感した。

今、日本のエネルギー政策が岐路に立たされているとしたら、当事者不在で話が進まないことを祈る。
福島の人たちだけでなくて、日本中の原子力発電所と共存している人たちも。
そして、日本が今置かれている状況を、世界にきちんと発信してほしいと思う。
今日本で起きていることは、ドイツなどをのぞいたら、世界の原発世論の大きな流れを変えるには至っていない。
でも、好む好まざるにかかわらず、世界のエネルギー政策の今後を左右する、重要なリファレンス・ポイントになる可能性があるのだ。
スリーマイル島周辺地域を訪ねて、「チャイナ・シンドローム」を見て、そんなことを考えた。

2011年1月9日日曜日

映画「愛する人」とナオミ・ワッツ

15日から公開される「愛する人」(原題Mother and Daughter)という映画がある。
邦題に対するつっこみはおいておいて、うーむとうなってしまう良い映画であった。

この映画について、ナオミ・ワッツにインタビューする機会に恵まれた。
映画についてのインタビューは、雑誌などに出たので割愛するが、ナオミは想像していたのとタイプの違う女性だった。
柔らかいのだが、芯の強いフェミニストタイプ。
たとえば男性をサポートするような役柄や、被害者の役柄をのぞいて、女優が演じることができる役柄がハリウッド映画において少なすぎるとぷんすか怒っていたり、「名前は言わないけど、女性をサポートする役柄はやらないという俳優さんって驚くほど多いのよ」と言ってみたり。
自分は母親になるという選択をしたけれど、「女性の多くは社会のプレッシャーを受けて、子供を持たないといけないという幻想に追い詰められる。女性だからといって母親にならなければならないというのはおかしい」という発言もあった。
そして、映画というものは、コミュニケーションの手段であって「映画を媒介に女性たちがいろんなことを考えられるチャンスになればいいと思う」。

今日、このブログの冒頭を書きながら、「良い映画だ」と思った理由はなんだろう、と自分の頭のなかを整理しようとしたのだが、インタビューの内容を頭のなかで辿るうちに思い出した。
この映画、どちらかといえば、暗くて辛いストーリーである。
Motherhood、母と娘の関係という大きなテーマがあって、そこにさらにティーンエージャーの妊娠とか、不妊症とか、養子縁組とかいろいろ複雑な問題が絡んでくる。
そういうことをなるべく先送りにしてきた30代後半女性としては、できれば避けて通りたいタイプの問題ばかりを取り扱っている。
それなのにこんな私をつかまえて「母親になりたいかどうか」という根本的な問題をとことん考えたほうがいいのではないか、と思わせてしまうパワーがあるのである。
ナオミがいう「コミュニケーションの道具」という役割をきちんと果たしている。
それ以外にも、アネット・べニングの天才的な演技とか、ナオミの童顔なのになんで?と思わせてしまう不思議なエロスとか、ほかにも見所は満載。
おすすめの秀作である。

2010年8月18日水曜日

映画「Restrepo」を見て考えたもろもろ

ちょっと前に「Restrepo」という映画をみてきた。
(このときにもブログ書こうと思ったのだが、怠慢で書かないまま時間が過ぎていた)
この映画を撮ったのは、ティム・ヘザーリントンとセバスチャン・ユンガー という2人組。
アフガニスタンのなかでもものすごく危険といわれる地域にある基地に暮らす兵士たちを追ったドキュメンタリーである。



セバスチャン・ユンガーは、ちょっと有名なジャーナリストで映画の原作にもなった「パーフェクト・ストーム」を書いた人。
ティム・ヘザーリントンは、ヴァニティ・フェアと契約しているフォトグラファー(本人は写真も映像も撮るのでこのレーベルをあまり好んでいないらしいのだが)で、これまで多くの紛争地域や戦地で暮らしてきた人。
私は友人の紹介で何年か前に知り合い、一度、この映画の製作中にインタビューしたこともある(このインタビューは、わけあって、まだどこにも出てないのですが)。
インタビューをしたときに、彼が言ったことでものすごく印象に残った言葉があった。
「戦争は悪い。
戦争は悪いけど、そこには極限的な状況だからこそ生まれる愛があったりする。
僕はそういう瞬間をとらえたい」

そうやって、それからしばらく経ってこの映画ができた。
そして今年の春サンダンス映画祭で審査員大賞ドキュメンタリー部門をとった。
今やっているプロジェクトにティムを誘いたかったこともあって、映画を見た直後にティムに会いってきた。

会って雑談をしていたら、ティムがこんなことを言う。
「右側から叩かれるのは想像してたけど、リベラルからもけっこう叩かれたよ。
戦争を悪として描いていていないからけしからんってね」
映画を見れば一目瞭然なのだが、この映画はアフガニスタンをめぐる政治論争とはまったく別の視点から撮られている。
そこにあるのは人間ドラマで、もちろん戦争がからんでいるわけだから、モラル論を退けることはできないけれど、特定の考え方を主張するために撮られた映画ではない。
それでもやっぱり叩かれちゃうんだなー。
「極端なリベラル主義者は、超タカ派の保守派と同じくらいクレージーだってことに気がついたよ」
納得である。
おかしいのは、ラッシュ・リンボウやグレン・ベックだけではないのですよ。

話はちょっと変わるが、先日、男友達とビールを飲んでいるときに、最近 The Atlantic に掲載されたある記事が話題にのぼった。
タイトルは「The Point of No Return」。
イランと核兵器とイスラエルとオバマ政権の話。
今、これを読むと、急にいろんな恐ろしい心配事が急に現実味を帯びてきて、ものすごく暗い気持ちになります。
ビールを飲みながら、いろいろと悪い事態のシナリオを話したりしていたときに、私が「そんなことになったら、もうすでいがっかりつくづくがっかりすると思う」
と言った。
そしたら男友達が、ちょっと意地悪な目をして、「そう?もうがっかりしてる?」と聞くでは「to some extent (ある程度は)」と答えると「何に?」というので
「医療改革とアフガニスタン」と答えたわけです。

ちなみにこの男友達は、圧倒的に白人の多い共和党支持基盤に育ち、しかも、自分の家族もそっちの方向だが、どういうわけか自分だけはそこに染まらず、パンクとチョムスキーから政治を学んで、実はアナーキストです、みたいなタイプである。

そしたら彼が言うではないですか。
「リベラルはさ、選挙のときにはグラスルーツで戸別訪問とかしてたけど、医療改革のためにもアフガニスタンのためにもほとんど動いてないよね〜。それじゃなんにも変わらないよね」

おっしゃるとおり。
選挙のときにあれだけ盛り上がったのに、ロックスターだった大統領がすっかり孤立したように見える今日この頃。
人間って勝手である。

「オレは、けっこうがんばってると思うけど、オバマ。最高裁の判事のメンツを見ろよ」
と友達。

もしかしたら、一番ダメなのは、選挙が終わったと同時に元の生活に戻っていった中途半端なオバマサポーターだったりして。
いや、きっとそうなんだろう。
って考えると、何かを動かしてるのは、ほんと一握りの、クレージーとすれすれの情熱のある人たちで、たとえば私なんかはその基地が今年の春に閉鎖されたことも「Restrepo」をみて初めて知ったくらいのダメっぷりである。
こういう人間が大多数だから、政治があるべき方向に進んでいかないんじゃないか!
というあまりに当たり前な事実に思い当ちゃった。
人任せにしても、何も動かない、ってことをもうちょっと考えないといけない気がしてきた。
これってきっと、ユニバーサルな政治が抱える問題なんではないでしょうか。

2010年5月24日月曜日

セックス・アンド・ザ・シティは好きですか?

セックス・アンド・ザ・シティは嫌いでしょう?とよく聞かれます。
なんでかな。
SATC(ちなみにこの略し方は、日本特有なんだけど)を「嫌い」という人間のタイプに見られるのは。

SATCが有料ケーブルチャンネルHBOで始まったのは、私がニューヨークに移り住んだ1998年だったし、通信社をやめて独立した頃に、日本で初めてDVDが発売されたり、そんなタイミングの偶然もあって、今まで、SATCについてはときどき書いてきた(このへんの話は、VOGUE NIPPONの6月号に書きました)。

というわけで、今回も、試写と記者会見(4人+クリス・ノース、監督のマイケル・パトリック・キング)に行って来た。
アメリカ人の男友達に「今週、SATCの仕事なんだよねー」と言ったら、「I am sorry」という答えが返ってきた。
何がそんなにイヤなわけ?と聞くと、
「It makes women look stupid」というではないですか。

どうなんだろうか。
確かにちらっと見ただけだと、そう見えるかもしれないな。

私個人的には、賛成できないところもあるけれど(たとえば、消費至上主義的なところとか)、ここまで社会現象化した映画を「嫌い」という一言で片付けられない気がするし、ごくごく客観的に見て、すごくよくできてると思う。

マイケル・パトリック・キングが記者会見で、「火がついた理由はファッションだったとしても、そのおかげで、女性の生き方にはいろんな形があるってことを表現できた」と言っていた。
ファッションは「エサ」だったわけだな、つまり。
そういう意味では、作り手の思惑通り。

今回、いくつかの雑誌に原稿を書きながら、テレビシリーズのこととかを思い出してみたのだが、やっぱりいろんな意味で、次々とタブーに挑んだところは評価するべきだと振り返ってみた(もちろんエンターテイメントだから、ばかばかしかったり、リアルじゃない部分は多少あると思う)。
わかりやすい例でいえば、「彼氏が3Pしたいっていうんだけど」とか「アナルセックスしたいって言われた」みたいな話は、現実世界でも起きているわけだけど、マスメディアではある意味タブーだったわけで、それを有料チャンネルだったとしてもテレビで表現しちゃった、ということは、やっぱりすごいことだったのだと思うのです。
そんな姿勢は新作でも生きていて、今回のテーマは、marriage、 motherhood、 menopause(更年期)の3M。
ここまで続いて、キャラクターが年をとると、避けて通れない道なんだろうけど、逃げないところはすごいと思う。

前回、「結婚=ハッピーエンド」っぽい流れで終わっていたところが多少不満だったのだが、今回のキモはやっぱり「結婚=幸せ」というほど簡単じゃないよ、という部分なのかなと思った。
結婚はゴールじゃないし、したらしたで、そのあとも延々と続いていくわけで、続けていこうと思ったら日々の努力が求められるわけです。
ま、当たり前なんだけど、意外とこれ、考えないまま結婚しちゃう人多いと思う(自分も含めて)。
最近、私のまわりの既婚者女性の周辺がいろいろ騒がしいこともあり、いろいろ深く考えてしまった。
おまけに同じ日の夜、Revolutionary Roadなんて見ちゃったこともあって。

映画自体のできは、どうですかね。
試写に参加したアメリカ人ジャーナリストたちの間では「ファンサービスっぽいよね」という意見が出ていた。
80年代の回想シーンとか、アブダビのバケーションシーンとか。

ちなみに前回もそうだったんだけど、記者会見では必ず「次はあるんですか?」という質問がでる。
そして、必ずはぐらかされる。
個人的には、そろそろやめてもいいんじゃないか、と今回思った。
ひとつのエンターテイメント作品としても、そろそろ限界にきていると思うし、現代の女性にSATCが言えることはもう尽きたような気がする。
オーディエンスに伝わったかどうかは別として。

新作が、日本でどう受け止められるか、楽しみです。

2010年3月13日土曜日

映画「The Cove」

バーチャル世界で交流させていただいている方の一人に、ニューヨーク在住のDyske Suematsuさんという方がいらっしゃる。
彼から、「The Cove」についてどう思う?
とのメールをいただいた。

見てないんですよ。
見てない理由は、1)忙しい、2)気が重い。

アメリカに住んでいる日本人なら、少なからず「気が重い」という気持ちはわかっていただけると思う。
とりあえず、捕鯨問題にかぎらず、日本の文化が問題になったりすると、どっちかのポジションをとらなきゃいけないような気になるし、見たら意見を言わなきゃいけなくなるじゃないですか。
ということで、私の腰は引けているのです。
(ちなみに、勉強しろよ、と言われるのを覚悟でいうが、なぜ捕鯨が大切で、どんな伝統的なバックグラウンドがあるのか、私の捕鯨問題についての知識はまったくお粗末である)

が、ダイスケさんが送ってくれたブログのポストは、捕鯨問題がわからなくてもわかる本質的なポイントをついていた。
ダイスケさんは、「The Cove」について、「自分のことを日本人とも、アメリカ人とも思っていない」という立場から、誠意のある姿勢でこの問題について語ろうとしている。
(ダイスケさんは、80年代からニューヨークにいて、英語で文章を書いている)

It was certainly painful for me to watch it.
Even though I don’t think of myself as Japanese (nor American), other people certainly do, so there is no escaping of the impact this film has on my identity and how people perceive me.

ダイスケさんは映画を作った側の人たちから、レビューしてくれという依頼を受けて、このブログを書いたらしいのだが、日本の立場もちゃんと代弁しつつ、映画のちょっと急進的と思われるやり方も批判しつつ、捕鯨問題の是非よりも、こういう文化的な衝突について、どう向き合えばいいのかを示唆しているような気がする。

私の目を一番ひいたのは、次の一文。
As I said in my post about whaling, when you let the situation escalate to the point of emotionally wounding one another, all you are doing is guaranteeing the conflict to last forever.
(感情的にお互いを傷つけあうところまで状況が悪化してしまうと、衝突が永遠に続くことを許すだけである)

ツイッターなどの言論を見ていても、この映画に対してかなり感情的なリアクションが目につく。
感情的に反応してしまうのは、攻撃されている、と思うから。
攻撃されたら、ディフェンシブになるのは、当たり前のことだし、(見てないながらに)映画の批判的なトーンを考えると妥当なことかもしれない。

こういう文化的な問題を、国対国というフレームで考えると、残される道は攻撃しあうだけになってしまいがち。
ダイスケさんが言うように、日本の捕鯨をやめさせることが目的だとしたら、この映画は最悪の戦略をとったということになる。

一連の騒ぎを見ていると、日本でも捕鯨が悪いっていっても、闘牛はどうなんだとか、あそこはネコを食べてるじゃんとか、そういう反応が多いような気がするのだが、それはそれでなんだか悲しい。
捕鯨がどういう理由で、どう文化的に重要で、それをどう外にアピールするべきかという本質的な議論がお留守になってしまうから。
非難されたときに、「お前に言われたくないよ」と言いたくなる気持ちはわかるのだけれど。

先日、話題にした「The End Of the Line」 が私に心に響いたのは、誰かを頭ごなしに否定したりジャッジしたりするのではなくて、「地球」として、どんどん魚が減っているという状況を前に何を考えるべきか、ということを説いていたからだと思う。
国同士で「お前だって、あれやってるだろ」とか言いあっている間に、地球はどんどん汚れ、動物はどんどん殺され、資源はどんどん少なくなっていくわけですから。
なんてことを、ダイスケさんのブログを読みながら、考えたのでした。
興味のある方は、ぜひ読んでみてください。

2010年3月9日火曜日

The End of the Line

というわけで、新しいブログに引っ越して第一弾です。

ついでにウェブサイトもデザインしなおして、ここからブログもツイッターも見られるようにしてみました。

ここまでくるのにどれだけの時間がかかったことか。

(引っ越しにあたり、昔のエントリーを動かそうと思ったが、やろうとしているだけで頭が痛くなった。というわけで、放置することにした。あしからず)

さて、最近、海のドキュメンタリーが話題ですね。

「The Cove」とか「オーシャンズ」とか。

この2つの話題作は見ていないので、なんともコメントできないのだが、ここまでヒステリックな感じに騒がれているのを見ると、より見る気持ちが失せてしまう。本当はこういう職業なのだから、好き嫌いにかかわらず見たほうがいいのだろうと思うのではあるが。

それはそうと、また別の海の映画「The End of the Line」の上映会に行ってきた。

招待してくれたのは、時計ブランド「シャリオール」のコラリー・シャリオールさん。

SOHO HOUSEというセレブな(という言い方は嫌いなのだが、ここはあえて)会員制のホテルでの上映会だし、会場についてみると、有名ソーシャライツの姿も見 えるし、お金持ちが集まって社会派ドキュメンタリー見る会ですか、とちょっとナナメな感じでスクリーニングにのぞんだわけです。

シャリオールさんに挨拶すると、「実はこの映画はNOBUとか三菱商事を攻撃しているようにも受け取れるから、どう思うかしら」なんて言っている。

またかよ、な気分である。

が、映画が始まってみると同時にぐいぐいひきこまれてしまった私。

日本での公開は決まっていないようなので、決まった場合に備えて、詳細は差し控えるが、要は、人間が魚をものすごい勢いで釣っているので、魚が足りなくなっている、という話である。そして、魚の減るスピードは加速しているのだが、それに日本の食文化や世界中の寿司ブームが貢献しちゃっている、という話なのである。

社会派ドキュメンタリーにありがちな展開だが、上映の中盤あたりから、かなり悲観的な気持ちになってきた。

これ、どうやって落とし前つけるんですか、って。

が、この作品が良かったのは、「できること」を提示しているところであった。

できること、というのは、シンプルに、絶滅の危機に瀕している魚を食べない、ということである。

ドキュメンタリーの終わりに、Seafood Watchという団体が出しているリストが配られた。「Avoid」(食べるのを避けるべき魚、たとえばトロ)、「Good Alternatives」(まあ食べても大丈夫)、「Best Choices」(アワビ、いくら)などがリストされている。同じウニでもメイン州の周りではまずいが、カナダでは大丈夫とか、産地によって違ったりもする。iPhone アプリもダウンロードできる。

それを見ていて、5年くらい前に同じリストをもらったのを思い出した。それを見て私はチリ産のスズキを買うのをやめたのである。この団体は、かなり影響力が大きいらしく、聞いてみると、チリ産のスズキは、絶対的な危機的状況を免れたらしい。

そして今回のドキュメンタリーもイギリスでは反響が大きく、クロマグロを出さないレストランが相次いであらわれたという話もある。

もうひとつ好感がもてたのは、あまり政治的な匂いがしなかったこと、どこか特定の国や文化を非難したりするトーンじゃなかったこと。

さらに上映後のQ&Aで新しいことを学んだ。

最近、国際社会でちょっとした問題になっているソマリアの海賊船の話。

あれはもともと、ソマリアの政府が漁業権を海外の企業に売ってしまい、商売から閉め出されたソマリアの漁師たちが苦し紛れに漁船を乗っ取ってみた。そうしたら身代金がとれてしまったので、だったら誘拐すればいいんだ!と思ってしまった、と、誘拐専門になってしまったという話である。

海賊行為や誘拐を正当化するつもりはないが、物事にはだいたいある原因があって、それが思ってもみないような結果につながってしまうことがある。

そして、原因に直接的、間接的に貢献しちゃっている人たち(魚をとっている企業も、食べる私たちも)は、そんなことは考えもしないことのほうが多い。

私だって、トロは大好きである。

もう食べません、と宣言する勇気はない。

(ちなみに、マグロも地域によっては大丈夫だったりするらしいのだが)

でも、食べるときに、世界の反対側でこんなことが起きているのだ、ということはわかっていたほうがいいような気がする。

ニューヨークや東京やロンドンといった人口の多い都会では、流行りすたりが、モノの流通にものすごく大きなインパクトを与える。

大都会に住んでいる人間の一人一人が、そういうことをちょっとでも意識して生きると、何かが変わったりすることもあるのだろうと、珍しく前向きに考えながら、この夜は帰途についたのでした。

というわけで、トレーラーはこちら。